Onde Martenot Guestbook 3
[30] まだまだトゥラ 投稿者:続いてパート5 投稿日:2000/11/29(Wed) 22:15
偉大な交響曲の重要なピアノのソロ・パートを初演した、後に二番目のメシアン夫人となったイヴォンヌ・ロリオとの最も幸福な時期、愛の頂点を強く反映した作品だったからなのでしょう。実際、最近は今年2000年のウィーン・フィル、ベルリン・フィルとの共演も含め、またトゥランガリラを演奏なさっているようですが、イヴォンヌ夫人は92年のメシアン死後しばらくの間、この曲だけは演奏できないと、コンサートの予定をことごとくキャンセルなさったのです。余談ですが62年にトゥランガリラ交響曲の日本初演に立ち会うために初めて来日なさったのが、当時カトリック信者が離婚の出来なかったフランスという国の事情で、お二人にとっての〔新婚旅行〕となったわけです...
49年12月の初演を半世紀を経て後追いするツアーをこの春、同じボストン響(小澤征爾指揮、ピエール=ローラン・エマールのピアノ)と共に出来たのは私にとってこの上なく貴重な体験でした。
[29] トゥ 投稿者:これが本当のパート4 投稿日:2000/11/29(Wed) 22:14
《愛と死》もこの曲にとって大きなテーマです。第八楽章ではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』からの引用にきっとお気付きになられるでしょうけれど、愛l'amourと死la mortはもともと同じ語源の姉妹関係、決してイタリア・オペラの独壇場なのではなく、愛の瞬間を死に例え、また死による愛の浄化は近松の人情ものなどでも見られるテーマです。他のメシアンの作品で色濃くのしかかるカトリック主義よりも、この作品ではむしろより直接的で肉感的な愛に異国的な情熱が香りを放ちます。第六楽章における音楽的にデフォルメされた鳥の歌も、これ以外のほとんど鳥類学者(メシアンの名刺にはこの肩書きが刷ってあった!)かと思わせる程の鳥に対する執着までは感じさせません。きっとこの
[28] トゥ 投稿者:パート4 投稿日:2000/11/29(Wed) 22:13
《愛と死》もこの曲にとって大きなテーマです。第八楽章ではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』からの引用にきっとお気付きになられるでしょうけれど、愛l'amourと死la mortはもともと同じ語源の姉妹関係、決してイタリア・オペラの独壇場なのではなく、愛の瞬間を死に例え、また死による愛の浄化は近松の人情ものなどでも見られるテーマです。他のメシアンの作品で色濃くのしかかるカトリック主義よりも、この作品ではむしろより直接的で肉感的な愛に異国的な情熱が香りを放ちます。第六楽章における音楽的にデフォルメされた鳥の歌も、これ以外のほとんど鳥類学者(メシアンの名刺にはこの肩書きが刷ってあった!)かと思わせる程の鳥に対する執着までは感じさせません。きっとこの偉大な交響曲の重要なピアノのソロ・パートを初演した、後に二番目のメシアン夫人となったイヴォンヌ・ロリオとの最も幸福な時期、愛の頂点を強く反映した作品だったからなのでしょう。実際、最近は今年2000年のウィーン・フィル、ベルリン・フィルとの共演も含め、またトゥランガリラを演奏なさっているようですが、イヴォンヌ夫人は92年のメシアン死後しばらくの間、この曲だけは演奏できないと、コンサートの予定をことごとくキャンセルなさったのです。余談ですが62年にトゥランガリラ交響曲の日本初演に立ち会うために初めて来日なさったのが、当時カトリック信者が離婚の出来なかったフランスという国の事情で、お二人にとっての〔新婚旅行〕となったわけです...
[27] 私が語るトゥ 投稿者:本人です パート3 投稿日:2000/11/29(Wed) 22:11
《愛と死》もこの曲にとって大きなテーマです。第八楽章ではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』からの引用にきっとお気付きになられるでしょうけれど、愛l'amourと死la mortはもともと同じ語源の姉妹関係、決してイタリア・オペラの独壇場なのではなく、愛の瞬間を死に例え、また死による愛の浄化は近松の人情ものなどでも見られるテーマです。他のメシアンの作品で色濃くのしかかるカトリック主義よりも、この作品ではむしろより直接的で肉感的な愛に異国的な情熱が香りを放ちます。第六楽章における音楽的にデフォルメされた鳥の歌も、これ以外のほとんど鳥類学者(メシアンの名刺にはこの肩書きが刷ってあった!)かと思わせる程の鳥に対する執着までは感じさせません。きっとこの偉大な交響曲の重要なピアノのソロ・パートを初演した、後に二番目のメシアン夫人となったイヴォンヌ・ロリオとの最も幸福な時期、愛の頂点を強く反映した作品だったからなのでしょう。実際、最近は今年2000年のウィーン・フィル、ベルリン・フィルとの共演も含め、またトゥランガリラを演奏なさっているようですが、イヴォンヌ夫人は92年のメシアン死後しばらくの間、この曲だけは演奏できないと、コンサートの予定をことごとくキャンセルなさったのです。余談ですが62年にトゥランガリラ交響曲の日本初演に立ち会うために初めて来日なさったのが、当時カトリック信者が離婚の出来なかったフランスという国の事情で、お二人にとっての〔新婚旅行〕となったわけです...
[26] 私が語るトゥ... 投稿者:本人です パート2 投稿日:2000/11/29(Wed) 13:52
その色彩豊かな音楽を語るのに《ステンドグラス》というのが一つの大切なキーワードです。多くの様々な大きさや形、色合いの色ガラスの織り成す色彩のハーモニーはまさにメシアンの音楽そのものです。例えばパリ、ノートルダム寺院の青バラ、赤バラと呼ばれるステンドグラスがありますが、青バラといっても決して青一色で作られているのではありません。およそ反対色とも見える暖色系のガラスもたくさん混ざって、そのステンドグラス全体の基調となる青を我々は感じることが出来るのです。それぞれの色ガラスが及ぼす影響の効果も制作者はもちろんしっかりと計算し尽くしていました。メシアンのスコアーにも、ある部分だけを取り出したら、何故こういう楽器を重ねるのか、他が皆強い音で演奏しているのに一人だけ弱い音の指定がしてあって、これはミスかな、などと一瞬迷ってしまうような箇所もあるのです。けれど全体の調和として考えてみると、なる程と納得させられるそこに厳然と横たわるある基調を聴き取ることが出来るのです。そうして陽の光を受けて、刻々と変化する色彩こそオンド・マルトノのとっても最も得意で相応しい役割なのです。
[25] 私が語るトゥランガリラ交響曲 投稿者:本人です パート1 投稿日:2000/11/29(Wed) 11:27
トヨタのHP用に書いた原稿ですが諸事情によりあちらのページとは内容が異なりますので時間があったら比べてみてください!!!
オリヴィエ・メシアン作曲のトゥランガリラ交響曲は、間違い無く20世紀の両大戦後に生まれた作品の中で、最初にオーケストラのレパートリーとして定着した音楽として指摘することが出来るでしょう。はち切れんばかりのダイナミックなリズムと多彩なオーケストレーションの魔力、そしてオンド・マルトノが支配する美しいハーモニーと旋律に彩られた溢れる程のロマンティックな抒情性は、現代曲と遠慮がちに座席に座った観客さえも巻き込んで、例え何処の演奏会であっても熱狂的な感動と興奮を演奏家と聴衆が分かちあえる名曲としての評価をすでに確定させている事を納得させてくれます。
メシアン自身が1944年に著した『我が音楽技法』に見る事のできる音楽的な手法が、49年に初演されたこの大作(当初そのスコアーは電話帳と呼ばれた)である一つの頂点を極めた事は確かに違いありません。技術上の分析や解析、専門家からすれば尽きせぬ探究心の宝庫といったところですが、ここではまず何よりその音世界が編み出す音空間の中に臆することなく、進んで身を置いてみましょう。
[24] 無題 投稿者:チャイム 投稿日:2000/11/28(Tue) 11:02
no.23の質問に対して回答いただきました。
ありがとうございました
[23] 教えて 投稿者:チャイム 投稿日:2000/11/28(Tue) 10:43
誰かわかる方教えてください!
原田 節さんが11月29日に長野県の松本で演奏をするというのを聞きました。
ただ場所がわかりません。どなたか知りませんか?
[22] 無題 投稿者:本人 投稿日:2000/11/28(Tue) 00:17
東京公演喜井田和さ
全くその通りの同感
ただ オンドとテルミンはやっぱり別物じゃった
この違いこそが大切なんじゃな うん
[21] VIVA! 電波楽器!! 投稿者:丸殿音頭 投稿日:2000/11/27(Mon) 10:41
昨日、リディア・カヴィナの初来日コンサート見てきました。テルミン芸術の奥深さをまざまざと見せつけてくれるものでした。彼女の演奏はCDやビデオなどで接してきましたが、やはり生で聴くのは大違いです。演奏という芸術はそこで生み出される音のみでなく、奏者の神妙なる動きも含め五感でで感じるすべてを味わうものだという再発見がありました。
奏者の芸術性が即座に伝わる恐るべき楽器としてのテルミン。そしてその双璧をなすオンド・マルトノ、、、人間=芸術という至高の課題を提供してくれる愛しき楽器!天才の偉業と現代の巨匠に頭の下がる想いです。
我々も、もっと積極的に盛りたてて参りましょう!!

