「フルサト」by ハイフェッツ
第7章 島唄
(2007年3月13日)
大阪大空襲。
1945年3月13日23時57分~14日3時25分の約3時間半にわたり行われました。B29の274機襲来をはじめ、合計数百機の爆撃機による大阪市街地を徹底的に照準にした空爆でした。爆撃とそれに伴う大火災により、3987名の死者と678名の行方不明者が出たと記録されております。
私自身は大阪府豊中市の出身。父親は大阪市出身、昭和12年生まれの5人兄弟の末っ子でした。父の母つまり私の祖母は3月13日から14日にかけて、鉄の雨のような焼夷弾の間を、5人の子達、特に一番小さかった我が父を布団の下に隠しながら気丈に逃げ回ったそうです。途中子供とはなればなれになってしまい、空襲が収まった頃、町並みが原形をとどめないほどに破壊されつくした状況の中、祖母に残されたものは、右手に抱いていた我が父と、そして左手にその手をしっかりと握り締めていた四男と、懐には戦死した夫の位牌だけだったそうです。
数日間市街地をはぐれた残りの息子たちを探しさまよった後、現在の豊中市庄内というところで長男に連れられた3人の息子たちと無事な姿で再会でき涙したそうです。
私はおばあちゃん子でしたから、幼少の頃より戦争を生き抜いてきたこの祖母に厳しくしつけられました。でもとても優しくもしてくれました。時々この大空襲の話を聞かせてくれました。
「戦争で失うたものは、決して取り返されへんのやで」
毎年3月13~14日には、私の心は森山良子さんの「さとうきび畑」がオートリバースで流れ続けています。それに数年前より、夏川りみさんの「島唄」が加わりました。
「島唄」の凝縮された歌詞にこめられた意味の深さを理解するに及び、さらに命の重さに対する想いを強くします。そういった想いが、夏川さんの歌声を聴くと即座に大きなものになり、ところかまわず涙腺が緩むのです。
理不尽な大きな波に逆らえない状況の中、一体何ができたのか?二度と過ちは繰り返さないでと未来へ託すことしかなかったのではないか?