りみ島歴史散歩


美里城(930~1428年)


美里城(930~1428年)

りみ島を支配した美里王朝時代の王城跡。1428年のウチナー統一の過程で、首里王朝軍の進攻を受け、最後まで抵抗するが、ついに落城、王朝は滅亡した。

この城の見事な石垣に手を焼いた首里王朝は、ウチナー本島に美里城の石垣を参考にした首里城を築城したといわれている。

現在のりみ島の首都りみ市の別名である『イシガキ』は美里城の石垣に因むものである。

美里王朝絶頂期の姫君、美里姫は絶世の美女として知られ多くの絵画が残っています。
これはその中の有名な一枚で何故か穴から出ようとするところ。

歌も大変に上手だったと記録に残っています。
姫が歌うとヤマネコもクロネコもユンタを踊り始めたそうです。

石垣島の歌姫、夏川りみさんは美里姫の生まれかわりと言われています。こちらはりみさんです。ちゃんとロゴ入りですね。
お洋服は森山良子さんからプレゼントされたオレンジの服。
1000年前の美里姫も同じオレンジ色の服を着ていたとは!!
それにしても何故かこちらも穴から出ようとしています。
顔はそっくりでしょう。

りみさんが歌うとモグラも歌うと言われています。

晴りわたる日ん♪雨ぬ日ん♪歌うあぬモグラ♪
りみ島 郷土史家 くろぴぃ



美里王朝の末裔


当店の写真機が完成した時に、いろいろ試写をしました。

ちょうど美里城跡へ行って、説明版を読んできた事もあって、
往時の美里姫のお姿を写真に撮らせていただきたくなり、
早速「時空設定レバー」をテーゲーにセットし、起動CD(『てぃだ』)をかけ始めると、
いきなり戦の只中に舞込んでいました。

そうです、時は1428年(『ヤマト』の年号では正長元年)、
今まさに首里王朝軍が、美里城へなだれこんで行くところでした。

危うく難を逃れた美里姫様は、首里王朝兵の追討の手を逃れ、
旧家臣や姫様を慕う島民の庇護の下、松富・東表島などで、
静かにお暮らしになっているご様子を拝見し「ホッ」としました。

私は、安易に「お写真を」などと思っていたことを反省し、
その後のご様子を「そっと」見守らせていただいておりましたら、
美里姫様から代を重ねる事10代目のご当主に、
可愛い女のお子様がご誕生されました。

そうです、「りみ姫様」のご誕生です!。
その時の御泣声は、「今は昔の美里天ぢゃなし♪」と聴こえた気がしました。
まさしく、美里姫様の末裔でございます。

そのような訳で、このことを目の当たりにした私は、
この島に居る時は、「りみ姫様」とお呼び申し上げている次第です。

但し、姫様が各地の「唄会」にお出ましの節は、
どこに「かつての首里王朝」の追手が潜んで居るやも知れないので、
勿体無い事ですが、「さん」と呼ばせていただいております。

「首里王朝の追っ手」がりみ姫様に危害を加えようなら敵と刺し違えてもりみ姫様をお守りいたしまする。

by zusu 2003/02/09(Sun)


よくぞおっしゃいましたね。
しかし、首里王朝の末裔の追っ手ももう、今となってはりみさんの歌の前に青菜に塩状態で、剣の刃ももろもろでしょう。
そうして、りみさんの「涙そうそう」や「芭蕉布」2003/02/09(Sun)
お心意気、感服いたしました!。z聞いて、
涙流されることになるでしょう。

by 吉野や 
usuさんのようなファン
の方が居られる限り、姫様もお心安らかに、唄にご専念あ
そばされますでしょう!。

by にいば 2003/02/09(Sun)

りみ島 郷土史家第2号 にいば


美里城探索


先日、美里城を探索していたら封印されているガマ(洞窟)を発見しました。封印を解き、内部にはいると、古文書を数点と見慣れぬ花が咲いているのを発見採集しました。
 古文書を解読した結果、とりあえず、以下のことが判明しました。
 洞窟内で咲いていた花はブーゲンミリアという南蛮より渡来した種で、ブーゲンビリアの超変種であること。
 古文書『美里年代記』によれば、

●ブーゲンミリアの由来
 かって、美里城内には王立植物園があり、そこで栽培されていた花で、その高貴な美しさ故に王室の象徴とされ、一般人の栽培は禁じられていた。
 遠方へ外交使節団を送る時は、国王自ら正使に授け、副使以下へは王妃、王女が授ける決まりであった。
 また、美里王朝軍出陣の際には、総大将には国王自ら授け、以下末端の兵に至るまで王妃、王女らが授けたという。兵たちは思い思いに花を差し出陣していったといわれる。
 ちなみにブーゲンミリアの花言葉は『帰還』であり、特別にされていた理由もうなづける。
 しかしながら王立植物園は、美里城落城の際に放火されたため現存しない。

●クチャ加那について
 甘味大島の甘味王朝の王女ヤマトミの娘とある。ヤマトミは甘味王朝が首里王朝によって滅亡した際に、捕らえられ、首里軍の大将に現地妻になるように脅迫されるが、拒否したため、甘味大島より追放された。
 ヤマトミは奇怪ヶ島に流れ着き、美人であった為、男達に大歓迎され、一女をもうけ、クチャと名付けた。
 やがてクチャは母をもしのぐ美女に成長。島の娘達の嫉みを買い、崖より突き落とされる。それを聞いたヤマトミは絶望のあまり自害。
 しかし、クチャは近くを通ったりみ島の漁師に奇跡的に救助され、りみ島で暮らすこととなった。
 これを伝え聞いた美里国王は国賓待遇を申し出るが、クチャは断り、村人に独特な機織り技法を伝授して、尊敬された。享年45歳と伝わる。
 葬式は美里国王主催で盛大に行われ、甘味王妃の位を送ったということである。
 ちなみに加那というのは甘味語で愛しいと言う意味で、人に対する尊敬を表す語である。様、殿などのような使われ方をすると思ってよいだろう。

 以上の話は美里城落城の150年程前の話ということである。
りみ島 郷土史家 くろぴぃ


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