「フルサト」by ハイフェッツ
第89章 海中都市リミュランテスを救え!⑫
(2008年5月28日)
12.終戦
1945年7月24日早朝、佐々木賢一大佐が乗り藤田玲太郎少尉の操縦するゼロ戦闘機は石垣島上空を力なく迂回し、遂には島のほぼ中央の山地の斜面へ胴体着陸しました。激しい衝撃のため機体は大破し、乗っていた二人は外に投げ出されました。佐々木賢一大佐は、操縦していた藤田少尉に向かってできる限りの声を出して呼びかけました。「藤田少尉!無事であるか!」「はい!大佐殿はお怪我は!」藤田は左足を引きずりながら佐々木大佐の下へ駆けつけます。佐々木は遠のく意識の中で藤田少尉に指令しました・・「一刻も早く、荷物を・・・オオミミ様の・・もと・・へ・・・」そして意識を失いました。
佐々木はひんやりとした空気に目を覚ましました。ゆっくりと目を開けたとき、そこが民家の一室かどこかであって、自分が布団の上に寝かされていると分かりました。何日間こうしていたのでしょう?
「そうだ、石垣島に来ていたのだ・・墜落したんだ・・」急いで飛び起きようとしたとき、背中に激痛が走りました。再び布団に身を預けました。そのとき、ふすまがゆっくりと開き、白髪の和服の老人が部屋に入ってきました。100歳近いのではないでしょうか、一見すると仙人のような不思議なオーラを発していました。特徴的であったのはその老人の耳で、左右とも異常に大きく、まるで草履を顔の左右に持ってきたようだと例えれば間違いない。佐々木は一目見て、その老人が「オオミミ」であると理解しました。
佐々木が布団から起き上がろうとするのを手で制し、老人が言葉を発しました。
「そのまま、そのまま」
意外に大きくしっかりとした発声でした。佐々木大佐は横になったまま言いました。
「助けてくださったのですか、ありがとうございます。本官は、大日本帝国空軍第一航空隊所属の佐々木賢一大佐であります。オオミミさまでいらっしゃいますか!」
「いかにも」
「鈴木貫太郎総理大臣より直々の命令によりオオミミ様に親書と物品をお届けにあがりました。しかしながら無念にも戦闘機が大破し・・・・」
佐々木が述べようとするのをやはり手で制し、オオミミは言いました。
「もう、よいのだ。もう、何もしなくてよいのだ」
「・・・?」
「日本は、負けたのだ・・・!」
茫然自失のあと、佐々木はあふれ出る嗚咽をかみ殺しました。
* * * * *
翌日、漸くゆっくりと歩けるようになった佐々木大佐は藤田少尉と再会しました。藤田は足を引きずっていましたが、比較的元気そうでした。戦争が終わりました。日本の敗戦という結果で。佐々木はエリート軍人として若くして大佐となったため、簡単に割り切れないものがあります。しかしながら、上層部の判断や漏れ伝え聞く戦況の悲惨さから、日本の敗戦をうすうすとは感じ取っていました。
一方、藤田少尉は職業軍人ではありません。田舎の小学校でのんびりと子供たちに絵を教えていましたが、戦況苦しくなる中、強制的に徴兵されたのでした。元来臆病のかたまりだった藤田でしたし、体力もなかったので、軍ではおもに防空壕を掘る作業に従事していました。しかしたった一度、意外な才能を発揮しました。飛行機の操縦訓練でたまたま優れた成績をあげたのです。今回の「特命」も、これで抜擢されたのかもしれません。本心は勿論、戦争が終わってホッとしています。
話してみると、二人は同い年でした。ともに35歳。藤田は田舎に妻と11歳になる息子を残してきていましたが、佐々木は未婚でした。うらやましいな、などと言い合いながら二人はしだいに意気投合していきました。佐々木と藤田は終戦が明らかになったこの日をきっかけに、親友同士となりました。
二人はオオミミのもとで農業を手伝うこととなりました。オオミミはこの地方の実力者らしく、大きな屋敷と広い畑を持っていました。佐々木や藤田が生活の面で困ることは一切ありませんでした。周りはアメリカ人が増えたり貨幣が変わったりしましたが、二人は無関係にがむしゃらに働きました。それぞれは勿論、田舎へ帰りたかったのですが、アメリカ占領下では難しさを極めています。オオミミも「まだしばらく、こちらにいるほうがいいだろう。時期が来れば帰れるようにしてやる」と。
あるとき、佐々木は同じくオオミミのもとで働いていた一人の女性と結ばれました。生まれた男の子には「優一」と名付けました。字の通り、優しい人になってほしいと願いを込めて。佐々木はもうこの島を自身のフルサトであると思い始めていました。
一方、ようやく落ち着いてきたころ、藤田は足の痛みが悪化してきました。飛行機墜落時のときの手当てが十分でなかったのか、そのあと無理をしすぎたのかわかりません。痛みと高熱になやまされる日が続きました。
あるときオオミミに直訴し、田舎に帰らせてくれるようお願いしました。占領下であり手続きの困難さはありましたが、時間をかけてなんとか本土に帰ることができました。このとき、昭和三七年になっていました。藤田が本土の田舎で、妻と息子と再会し抱き合って涙したこと、その息子は既にお嫁さんをもらって息子、つまり孫ができたこと、その孫の名は「玲司」ということなどを、佐々木は藤田からの手紙で知りました。
* * * * *
昭和40年ごろ、オオミミは体力の衰え著しく、横になったままの日が頓に多くなっていました。年には勝てずということです。病床のオオミミを佐々木は毎日のように仕事の合間に尋ね、看病し続けました。佐々木にとっては恩人でしたので。戦後20年を過ぎて、佐々木も50歳半ばを過ぎました。
佐々木がオオミミに助けられた後、石垣島で生活し農業を手伝うようになってから20年たちました。その間に結婚して生まれた息子の優一も東京の大学に進学しています。占領当時のことですから東京の大学に「留学」ということになります。オオミミの屋敷のそばの民家に妻と二人暮らし。質素ではありましたが楽しく幸せに暮らしました。石垣島の自然も文化にもすっかりと馴染み、仕事の合間に郷土史を調べるという楽しみも見つけました。
佐々木には、ずっと気になっていたことがありました。20年前に戦闘機で石垣島に来た目的について。あるとき病床のオオミミに訊ねることにしました。
「オオミミさま、私が鈴木貫太郎総理大臣より預かってきた親書と荷物は一体何だったのですか?オオミミ様と当時の日本政府とは一体どのような関係だったのですか?」
このときは、オオミミは目をつむったまま、無言で何も答えませんでした。
しかし翌日になって、幾分か体調がよかったこともあってか、佐々木を呼びだしたのです。
「私ももうすぐ寿命で死ぬ。死ぬ前に佐々木君に話しておこうと思う」
と、オオミミはそう切り出しました。さすがに声に張りは無く、オオミミの体力の衰えを佐々木は改めて感じました。
「鈴木貫太郎は、大日本帝国を石垣島に避難させようとしていたのだ・・・」
佐々木は、オオミミの突拍子も無い言葉に驚きを隠せませんでした。鈴木貫太郎総理は、戦争末期に総理となりいかにして戦争を終結させるかと考えた人物であることは広く知られていますが、まさか大日本帝国を石垣島に避難させるなどと考えていたとは、まったく想像もしていませんでした。
「実は石垣島の珊瑚礁の下には、地下都市が存在するのだ。『リミュランティス』と言い伝えられてきた」
「・・・・!」
「無条件降伏を受け入れたあと、その『リミュランティス』に帝国政府を移し、本土全部を連合国側に明け渡してしまうつもりだったようだ」
そしてオオミミは、『リミュランティス』について語り始めました。
「その『リミュランティス』はいつ誰が建造したものかはわからない。しかし1000年ほど前にその都市、いや、都市遺跡というべきかな、そこが発見された。当時の里美王国が琉球王朝との戦いに敗れて、王族を中心とした幹部少数が石垣島に隠れたときに、偶然に発見したようだ。その『リミュランティス』は今でも残っている。そしてそこへ行くことのできる者は、今は私独りだけになってしまった・・・」