「フルサト」by ハイフェッツ
第65章 もうひとつの邪馬台国~里巫女伝説⑩
(2007年11月7日)
『徐福集団と日本の黎明』報告要旨 その3
発表者 内田美奈子(朝田新聞文化部記者)
共同研究者 夏川大学吉田研究室(日本古代史研究講座)
6.縄文~弥生へ継承された宗教観と出雲王国
縄文文化期および弥生文化期の宗教観とはどのようなものであったか。そしてそれがどのように変遷していったかを追跡していくことで、徐福集団と古代日本の関係の一端を明かすことが出来るのではないか。日本古代史を研究しヤマト政権成立の謎に迫ろうとする際に、必ずぶつかる壁は「日本神話」であり「神社」である。
そもそも「神社」とは何か。宗教のようであるがキリスト教や仏教などとは明らかに違う。縄文期には一種のアニミズム、自然崇拝であった。自然崇拝は人間の素朴な感情であるから勿論ヨーロッパにも存在した。しかしキリスト教や仏教などのような、理論体系を持った大宗教が出現することによって、自然崇拝を中心とした信仰は迷信扱いとなり排除された。祖先信仰も然りであった。
ところが日本だけは「神社」という形で自然崇拝が今現在にいたるまで残っている。これは何故か。それが「大物主神(オオモノヌシノミコト)」である。
徐福一行が北九州から出雲に大移動した際、そこには前述の通り、既に大陸から移動してきた弥生人が先住していた。彼らはさらに先住民族であった縄文人と融和しながら、農耕文化を拡げていった。縄文人は自然崇拝で、弥生出雲人はそれを受け入れた。したがって大きな混乱も無く、縄文人も次第に弥生化していった。ついで徐福が出雲を訪れたときも同様の経緯をたどり、融和したのであろう。ただし革命的な技術を携えてのことであったから、恐らく徐福はただちに出雲を掌握しそこで王になったのだと推察する。
徐福王国すなわち出雲王国は優れた技術力で農地を開拓し、恐らく数代をかけてその支配域を近畿北部から奈良盆地、熊野地方(今の和歌山県)にまで拡げた。この時代が長く続き、自然崇拝と祖先崇拝が一つになって、日本列島の住民の精神文化となってしまった。そのシボルとして神社が多く建立され多くの神様が祀られた。それらの神様の中で最も古く影響力の強いボス的存在であるのが「大物主神(オオモノヌシノミコト)」であるならば、仮説として「大物主神=徐福」を提唱することも許されていいのではないか。
7.邪馬台国東遷と出雲国譲りに関する考察
徐福集団が北九州有明海沿岸近くを拠点にして先住弥生文化人との共生を試みた後に、出雲へ集団で移動したことは既に述べた。この理由として考えられるのが先住弥生人との決別である。
北九州は大陸からの移民が多く、文化・情報の流入のほか、たびたび侵略の危険にさらされていた。そのため弥生人たちは常に戦争の準備に怠り無かったと思われる。当然、徐福集団の技術を農具だけではなく武器製造に利用しようとしたに違いないが、徐福はこの要求を拒絶したのではないか。理由は北九州地区には充分質のよい鉄鉱石が採れないこと、そして徐福自身が戦争に加担することを良しとしない哲学を持っていたこと、である。
両者の意見の相違は、徐福の追放または逃亡という形で決着することになった。徐福は出雲へ逃れ、残りの渡来人たちで武器を製造し徐々に国を大きくし、これが後の邪馬台国(=吉野ヶ里遺跡)へと発展した可能性が高い。しかし北九州と出雲はその後、交易を中心とした平和的な交流を続けていたことが判明しており、これが後に数百年を経て邪馬台国東遷と出雲国譲りがほぼ血を流さない平和的な政権交代として行なわれたことにつながったのだと推察する。
倭国大乱の後、女王卑弥呼が倭国30余国の代表として連合の頂点に立つ(二三九年に魏に使者)。卑弥呼の死後、再び乱れ、再度女性である台与(トヨ)を女王として立てることで戦争は収束した新女王台与かその次の代の王は大陸からの侵略行為も止まない状況の中でこれ以上九州に留まることは得策で無いと考え、奈良盆地への政権移動を実行した。これが吉田研究室の持論である邪馬台国東遷説である。
邪馬台国が奈良盆地に移動する際に、奈良の纏向遺跡は出雲王国の首都であったと推定される。その証拠に奈良はじめ近畿一円の神社はすべて出雲系の神を祀っている。ヤマト政権の持ち出してきた新興の神である皇祖神「天照大神」は奈良には祀られていない。ちなみに出雲系の神で最も権威があるとされるのが既出の「大物主神(オオモノヌシノミコト)」であり、別名を「天照国照大神」といい、天も地も支配する偉大な神とされる。出雲国に国譲りを迫り近畿地方を邪馬台国連合が掌握したということは、出雲との戦争に邪馬台国が勝利したことを意味するが、では勝利したはずのヤマト政権の神(天照大神=卑弥呼?)が大和地方には祀られずに依然として大物主神を頂点とした出雲の神々が君臨しているのは何故か。
それはヤマト政権が大物主神を祀るという約束を結ぶことによって、奈良盆地を手に入れ人民を支配することが出来たのではないか。大物主神が邪馬台国および出雲双方にとってかけがえのない人物であり、それがすなわち、徐福だったのではないか。
邪馬台国の東遷と述べたが、実際は邪馬台国を中心とした九州連合の中で路線の対立が生じ、出雲国との連合により列島統一を目指した国々が女王を担いで東遷し、それを受け入れられなかった主に南方系の部族が九州に残ることで、邪馬台国連合は発展的解消をしたのだと考える。南方系の部族は後に熊襲(クマソ)と呼ばれ大和に恐れられることになる。
8.総括
①古代日本黎明期にその文化的政治的発展に徐福が深く関わったであろうことを示した。
②出雲王国からヤマト政権への権力の委譲について神社伝承学的見地から考察し
「大物主神=徐福」という新説を提唱した。
③徐福の渡来の物的証拠となりうる兼久神社伝承を発見した。
卑弥呼の邪馬台国の当時、列島全域にわたる統一国家は形成されていなかったと思われる。文献に見ることのできる古代都市国家の文明レベルを考察すると、列島全体という広範囲にわたり統治する段階にはなかったことが、古代都市国家論から導かれる結論である。したがって九州・沖縄の邪馬台国連合、瀬戸内海の吉備連合、山陰から近畿全般を支配した出雲連合などが群雄割拠した時代であったと推定されている。
紀元前二〇〇年ごろに徐福が北九州に到来したという仮定に立てば、現在判明している事実や研究成果をつなぎ合わせることで多くの事例を矛盾なく説明することが可能である。今後の考古学的な発見を期待するが、古い時代のことであり早急な結論を出すことは出来ないであろう。今回の仮説が閉塞している日本古代史研究への一石となれば幸いである。
◇ ◇ ◇ ◇
朝田新聞社側からの矢継ぎ早な質問に美奈子記者が回答し、時には智秋助教授が補足説明することで双方に理解が深まりました。壮大なロマンに満ちた仮説の発表に皆がやや興奮を抑えられないといった様子でした。各地に伝わる徐福伝説を全国規模で調査してまとめた総論、ということに留まらず、徐福というカリスマ性を持ったリーダーにより日本の黎明が始まったという仮説を、実に生き生きと描き出していました。期待される今後の考古学的発見により仮説が実証された場合には、歴史教科書を全面的に書き換えなければなりません。それほどにインパクトがあったのでした。
美奈子記者は、質疑応答が一段落したところで説明を続けます。
「では、徐福日本到来の確証に迫ったと述べてまいりました『兼久神社』の実地調査経過を最後に報告いたします。ただしこの研究資料は未発表資料です。本日ここで初めて公開するものであります」
再び秦沙織がPCデスクトップの、今度は「兼久神社~里巫女伝説」というファイルをクリックしました・・・。