「フルサト」by ハイフェッツ


第59章 もうひとつの邪馬台国~里巫女伝説④


(2007年10月14日)

 文献解読・調査と議論を繰り返し、仮説立案と検証を繰り返します。基本は吉田研究室のこれまでの立場である「邪馬台国北九州説」に添った形で。そしてフィールドワークを行い確証を強めていく。

 吉田教授は、純粋な学者です。それに対して、美奈子は学者ではなく、ジャーナリストです。ある意味枝葉末節ともいえる厳密な考証を重視するよりも、歴史を大づかみに理解し、一般読者に分りやすいように伝えていくことにより、学者達とと溝を埋めたいと考えています。吉田教授はそのことに対して、意外なことにかなり理解があります。

「古代史なんてものは、限られた文献と発掘結果から仮説を立てていく学問。だから本来は素人でも参加できるんだよ」

 しかし学者はその枝葉末節の部分において命を懸けているわけだから、分りやすい一般向けの普及本、言い換えれば考証の甘い物語は、書きたくてもかけないのですよ、と。そして「内田美奈子君ならこの仕事を立派に成し遂げるだろう、徐福は最適のテーマだ」と。

 弥生初期のころの日本の様子と吉田研究室の北九州説について吉田教授と智秋、そして美奈子で交わされた議論を一部紹介しましょう。

     ◇  ◇  ◇  ◇

場所:奈良県纏向(まきむく)遺跡近くにある夏川大学歴史学部の吉田研究室にて

吉田 邪馬台国の所在地については、大きく分けて北九州説と近畿(大和)説がある。

内田 吉田研究室では北九州説をとっているのですね。

吉田 そう。その場合の邪馬台国とは『魏志倭人伝に描かれている邪馬台国』という意味だけどね。

内田 ?

智秋 それはこういうことですよ。卑弥呼の時代までの邪馬台国は北九州にあった。
     その後、大阪府堺市あたりに国ごと移動して古代大和政権を作ったという説があるのです。
     そして吉田先生はその説を採っています。

吉田 邪馬台国が現在の天皇家につながるとすればそう考えざるを得ない。

内田 では最初から大和説ではだめなのですか?

智秋 それは苦しい。魏志倭人伝を素直に読めば北九州説になるし、
     その地理的解釈の議論は事実上決着したと見ていい。これが今の学界の定説です。

内田 もう少し詳しく聞かせてください。

吉田 では私から説明しよう。この夏川大学の近くにある纏向遺跡は紀元後200年程のものと調査された。纏向遺跡は、登呂遺跡や吉野ヶ里遺跡ほど有名ではないが、規模は吉野ヶ里の5倍強、奈良の平城京とほぼ同じ大きさで浄水施設もしっかりしており、金属精錬技術が無ければ建設しようがない立派なものだった。

内田 ・・・・・!

吉田 ところが年代的には邪馬台国の卑弥呼が魏に親書を送った時期と同じころのこの遺跡には、
     魏志倭人伝に描かれている「倭人」の風習・文化が全く見られない。
     つまりこの時期には大和と北九州に大きな勢力を持った国がそれぞれあり、
     それは性格の全く違った国だったといえる。

内田 それがいつごろ大和朝廷へと発展していくのですか?

智秋 日本書紀や古事記に記されていることは残念ながら信頼することは出来ない。
     色々疑いだすとキリがありませんが、天武天皇以前は創作であるという疑いが強いとみています。
     したがって、大和朝廷の成立は実は全く闇の中・・・。

内田 そこで「邪馬台国東征説」が成り立つのですね。神功皇后=卑弥呼説に近いものですね。
     でも逆に言うと、大和が邪馬台国を征服したとは考えられないですか?

智秋 もちろんそうです。学会の大半はその説になびいています。しかしそれは日本書紀を信じるところから出発していて、吉田研究室では違う視点で考えています。邪馬台国は現在考えられているような牧歌的な国ではなく、もっと強大な武力国家だと考えています。これは割と知られていることですが、聖徳太子より以前には九州地方はすでに中国風の「元号」を用いていました。政治的にも文化的にもかなり進んでいたようです。

内田 ・・・・・!

智秋 さらに後漢書東夷伝などに書かれている「倭の五王」は大和朝廷の大王(天皇)でなくて、
     九州地方の「倭国」の王であったと読むことも可能です。そして面白いことに中国の文献には
     この倭国の使者が自らを「秦国」と名乗ったと記録されている。

内田 秦とは秦の始皇帝の秦ではないですよね。時代が違いすぎます。
     まさか、徐福の子孫がフルサトを懐かしんで、そのように名乗っていたとか・・・。
     だとすると、「九州倭国=邪馬台国=徐福子孫」説!

吉田 鋭いね!でもそう単純じゃないと思う。

智秋 しかし、いい線いってますよ。もっと議論を深めてフィールドワークしたいですね。

吉田 まあまあ・・・。そもそも徐福がやってきたとされる紀元前219年ごろの日本列島はどんな様子なの?

内田 中国の江南地区からの移民がボートピープルのように台湾や沖縄、九州に渡来していたのだと思います。

吉田 その通り。

内田 そして縄文人たちがわずかに始めていた陸稲栽培を駆逐し大陸式の効率のよい水田式に変えていった。
     同時に弥生人=渡来人が北九州を中心に集落国家を作った・・・。
     しかしそこへさらに高度な技術を持った徐福集団が上陸してきた。
     中国全土に道路網を建設できるだけの技術と鉄の精錬技術を持った集団がやってきた。
     当然、争いになるのでしょうか。

吉田 そうかもしれない。そうでないのかもしれない。弥生人=渡来人と、
     徐福集団の文化・風習はどのようなものだったろうか?ここをもう少し調べてみよう。
     仮説を立てるにはまだ材料が足りないね。
     今日はこの辺で終わりにして、飯を食いに行こう!

内田 賛成!

智秋 賛成!

 三人は何と大阪まで出て、吉田教授の行きつけの沖縄料理のお店へ。2階の座敷を既に予約してありました。三人以外に、朝田新聞文化部の藤田部長も合流。和気藹々と古代史の話題で盛り上がりましたが、酔いがまわったせいか、教授の三線に合わせて藤田部長の音痴の「涙そうそう」がついに出ました。若い二人は苦笑いでした。

里巫女伝説


夏川りみさんと遊ぼう