「フルサト」by ハイフェッツ
第63章 もうひとつの邪馬台国~里巫女伝説⑧
(2007年10月31日)
『徐福集団と日本の黎明』報告要旨 その1
発表者 内田美奈子(朝田新聞文化部記者)
共同研究者 夏川大学吉田研究室(日本古代史研究講座
1.序文
徐福当時の紀元前200年ごろは日本では弥生文化前期であり、文字の使用は確認されていない。したがって徐福が日本にたどり着いたという証拠を新たに提示することは極めて困難である。では証拠が出るまでは徐福渡来の議論が無意味かといえばそうではない。現在判明している事実や文献をつなぎ合わせてそれらと矛盾しない仮説を立て、その仮説が様々な事実や背景を説明できるものであるならば、大変有意義な仮説といえよう。
さらに徐福研究には考古学・歴史学・文献学以外にも様々な学問分野、例えば経済学・心理学・造船学・航海学・哲学・生物学等からのアプローチが必要と判断する。
本報告においては、上記視点も加味しながら、徐福集団が日本に渡来したという大仮説の上で、彼らが古代日本黎明期に果たしてきた役割について提案する。なお、徐福集団が日本に漂着した物的証拠となりうるものの発見に至ったたので、最後に紹介する。
2.徐福伝説概要
紀元前219年、中国を統一した秦の始皇帝の命を受け「不老不死の薬」を手に入れるため、徐福は3000人の若い男女と百工(金属技術者・農業技術者等)、五穀の種と共に東方へ出航した。そして「平原広沢」の地に根を下ろしそこで王となって二度と中国へは帰らなかった。
以上が、史記に記述される徐福に関する最も信頼できる記事である。史記を記したのは司馬遷であり、司馬遷は徐福と30年ほど後に生まれている。正史として取り組むにあたり司馬遷はかなり正確に調査し考証した上で記載することを心がけており、徐福に関するくだりにおいても例外でないと思われる。徐福を直接見知っていた人から話を聴くなどしていたことが判明している。したがって徐福の実在は動かしがたいものである。
3.当時の日本の様子
紀元前300年ごろから弥生文化が広まり始めたといわれる。弥生期の日本の文化・風土は中国大陸南部、特に江南地方のそれと類似しており、例えば稲の品種や石器・木製農具などの類似性が指摘されている。このことから、稲作技術は朝鮮半島ルートあるいは台湾-沖縄-九州ルートを通ったにせよ大陸からの技術導入と見るのが定説となっている。その際、気候風土に合わせて品種改良が行なわれていたことを指摘しておく。
やがて縄文人との衝突や戦争を繰り返しながら九州から東日本に至る広範囲において稲作が定着することとなる。当時の人的構成は大陸系とくに南方系の弥生人と北方系の弥生人に大別される。稲作農耕文化が栄えると貧富の差が生じ、それが首長を頂点とする「ムラ」(古代都市国家の前進)を生み出した、それが争いにつながったというのが定説である。
ここではもう一歩踏み込んで考察する。当時の部族間の争いの原因は何であったか。稲作のための土地を争うことは実は考え難い。新たな土地を開墾して稲作を始めればいいからである。弥生文化が中国からの技術導入に端を発していることを考えれば、当時の戦争は「大陸などとの交易権」を奪い合いではないか。中国本土や朝鮮や他の倭国との交易をうまく進められれば当然莫大な利益を得ることができる。このように、縄文人との争いに加えて古代都市国家同士の戦争と、大陸文化圏との一部活発な交流が北九州を中心に行なわれていたというのが、弥生初期の姿ではなかったか。
4.徐福の第一次到来場所と里巫女伝説
徐福一行が日本列島に漂着後、第一次の安住場所として、佐賀県諸富町寺井津にある金立神社付近一帯に根を下ろしたという確証を得ることができた。金立神社の近くに存在する「兼久神社」という古い小さな神社に伝わる伝承を調査したところ、信憑性がかなり高い内容を含んでいることが分かった。詳細は本報告の最後に述べるのでここでは伝承の概要のみ紹介する。
徐福は有明海沿岸の内海に居を構えた。ともに海を渡ってきた数千人は皆無事に同じく九州に上陸し、今の佐賀県一帯に散らばって生活を開始したという。不老不死の薬の探索は早々に放棄し、新天地での理想郷作りに力を注いだと伝えている。そしてこの地で徐福の身の回りの世話をしていた日本人女性「りみ」と恋に落ちた。秦の始皇帝の恐怖政治を良しとしなかった徐福は争いを避けるように、やがてこの地を去る決心をする。5年後には帰ってくると約束をし、海を渡って東へ向かった。「りみ」は長い間待ちつづけたが徐福はついに戻ることはなかった。「りみ」はこの地を徐福の第二のフルサトであるとし、徐福を神として社を造り祀った。そして「りみ」自身はフルサトへの帰還を願う神のしもべである「里巫女(サトミコあるいはリミコ)」として、以来代々兼久神社の神官を務めてきたのであった。
ちなみにこの神社の名前は徐福のもたらした金属精錬技術にちなみ当初は「金具(カナグ)神社」としていたが次第に変化し現在の「兼久神社」となったとの記録が残されている。