「フルサト」by ハイフェッツ
第58章 もうひとつの邪馬台国~里巫女伝説③
(2007年10月9日)
翌日から、智秋と美奈子は研究を開始しました。智秋は講義に出る時間以外はすべて『徐福』に費やしました。そして週に一度、月曜日の朝にに吉田教授への報告会を行い、議論し課題と方向性を整理していくという形をとりました。最初の二ヶ月は、まずは資料を読むことでした。
資料といっても、徐福の資料はそれほどたくさんあるわけではありません。司馬遷の『史記』、『後漢書』東夷伝、『呉書』孫権伝、最近の中国の学術誌、日本のものでは紀伊名所図会、佐賀県立博物館研究報告など、限られています。
それに加え、上記文献を検討・解釈した国内外の論文、普及書も含めても、日本のものより中国のものが圧倒的に多いのが現状です。
内田美奈子は、さすがに朝田新聞社期待の文化部新進記者だけあって、現在の古代史学において最前線の論点は何か、何所の研究室が最も精力的かなどポイントはしっかりと整理している様子。さらに、古代中国の歴史に造詣が深く、漢文解読はお手のもの、現代中国語はぺらぺら。非常に飲み込みが早く、智秋が舌を巻くほどです。
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徐福(じょふく)は伝説上の人物。
中国を初めて統一した秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を手に入れるため、日本に渡来したといわれていますが、その渡来の仕方が大規模なのです。徐福は単身、日本に渡来したのではありません。これから子孫を生むことの出来る3千人の未婚の男女と、百種類の工人、さらには五穀の種子を携えて船出し、住みやすい理想郷を見つけ、そこに留まって王となったとされています。
その徐福が上陸したのが、佐賀市の東、筑後川の河口の諸富町とされているのです。上陸地として伝説が残るのは、青森から沖縄にいたるまで日本全国20箇所以上におよびますが、様々な文献や過去の研究者の調査結果等を踏まえると、この佐賀市諸富町とみて間違いは無いと思われます。
上陸年は、紀元前220年ごろ。日本では縄文時代から弥生時代に入ったちょうどその頃となります。つまり、ろくに青銅器の使いこなせなかった弥生人たちの前に、突如として鉄の文明をもって徐福が現れたとなると、当然その地で王国を建設し、王になったことと推定できます。
つまり、邪馬台国に先立つこと450年も前に、佐賀市一帯に一大王国が存在したことになります。これが日本の古代王朝建設とどのように結びつくのか、あるいは邪馬台国や朝鮮半島諸国とどのような関係を築いていたのか、各諸説あるものの、俗説の域を出ていません。
徐福がなぜ秦帝国に帰らなかったのか。これについても様々な説があります。
第一は、不老不死の薬が見つけられなかったこと。第二は、始皇帝の浪費癖から秦帝国が近く滅亡すると予想し、はじめから国外逃亡するつもりだった。第三は、日本が大変住みやすく、帰ることが出来なかった。
いずれにしても、日本においては徐福は伝説上の人物として評価されていますが、中国では勿論、実在の人物として扱われており、秦の始皇帝の時代の後の政権である漢帝国、隋帝国、唐帝国においても徐福王国に関する記載が正史に書かれているのです。
日本側の調査・研究が待たれているのが現状です。
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「短期間の間にかなり勉強したね」と、吉田教授は驚いて、美奈子と智秋を眺めます。
「日本の徐福研究者のなかにおいても、君たちは最も文献情報に明るいグループといってもいいだろう。とは言っても、漸く君たちが日本の徐福研究者の末席に名を連ねたにすぎない。これから仮説を立ててフィールドワークを実践して検証していくという中から、独自の視点で考えることができる日が来るよ、じっくり取り組みなさい」
研究室からの帰り、智秋は「南風」を聴きながらソアラを走らせています。
川は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
そんな流れが付く頃には
花として花として 咲かせてあげたい
泣きなさい笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
夏川りみの歌う「花」と、徐福とともに渡来した古代中国の若い男女数千人とが智秋の心の中で不思議な重なりをもって巡りめぐります。若い彼らを送り出した両親達はどのような思いであったのか、もう二度とあえないであろうことを覚悟していたのか。
そしてフルサトに対する愛着を振り切って船に乗った若者達。心の中は勿論、そんな人々の思いまでは歴史学は明らかに出来ません。だからなお、徐福王国の人々の心の動きを描いてみたい、と智秋は考えるのです。
「徐福王国のその後と、邪馬台国とのかかわりについてがポイントの一つになるのですね」と、助手席の美奈子が言います。智秋は駅までの運転手です。
「吉田研究室は、北九州説ですからね、面白いですよ」
そう言って、助手席の美奈子の方に顔を向けたとき、彼女はもう目を閉じて寝入っていました。
「寝言ね・・・」
智秋は静かに運転することを心がけました。