「フルサト」by ハイフェッツ


第64章 もうひとつの邪馬台国~里巫女伝説⑨


(2007年11月5日)

『徐福集団と日本の黎明』報告要旨 その2 

発表者   内田美奈子(朝田新聞文化部記者)
共同研究者 夏川大学吉田研究室(日本古代史研究講座)

 

5.徐福集団と先住弥生人との遭遇に関する考察

5-1 徐福集団と初期弥生人の出自

 徐福は「斎」の出身とされる。「斎」とは現在の山東半島を支配下におさめた国であり、民族としては漢民族であった。秦の始皇帝により中国が統一された際に「斎」を含めて6つの国は消滅するが、中国全土にわたる道路網の整備や浄水施設の建設に関して「斎」を中心とした中国の中央・北部の進んだ技術がその力を大いに発揮した。同時に文明的にやや遅れていた南部地域へも技術力が普及したといわれる。

 徐福は始皇帝に取り入り「不老不死薬」を餌に言葉巧みに膨大な資金を引き出し、数千人とともに山東半島から東へ出航する。当時の中国全体の人口が一五〇〇万人くらいであったとされるので、童男女と百工合わせて数千人という徐福集団は異常な数字であり、これが国家的大事業であったことを示している。このときの数千人はおそらく「斎」の人民であったと思われる。始皇帝の圧政から逃れて、噂されていた東方の平原広拓な地域への移住を目指し、若い世代の男女とともにユートピアを造る意志を持っていたことが想像できる。

 一方、先住の初期弥生文化人は江南地区からの移民である。先述の文明的にやや遅れていた南部地域とほぼ同じ文化・風習を有していたことからも明らかである。

5-2 徐福集団と初期弥生人との交流

 前述の通り技術力では圧倒的な優位さをもって九州に上陸した徐福たちであったが、では弥生人たちがすぐに服従したであろうか。それとも武力衝突避けられずに戦争となったのであろうか。我々はそのどちらでもなく、逆に徐福は弥生人たちと共存共栄のための協定を結ぶことで北九州に根をおろした、と結論付けたい。根拠として3つ挙げておく。

 1つは、徐復集団は武器を有していなかったこと。金属精錬技術者とともに渡来した徐福であったが、持ってきたものは五穀の種子のほか、金属農具と精錬道具であって実践用の武器は持ち込まなかったとされる。また北九州には良質な鉄が少なく、また精錬に用いる窯を造るための粘土等も弥生人たちの協力無しには入手できなかったと思われる。

 2つ目として考えられることは、争う理由がないことである。前述した通り弥生期の戦争の原因として最も合理的と考えられるのが「大陸との交易権」である。弥生人たちは大陸との接触を望んでいたと思われるが、徐福集団は自らが「亡命者」との意識が強く大陸との接点は当初は放棄していたと推定できる。この考えに立てば、徐福が北九州の中でも比較的大陸側に直面していない有明海沿岸近くに居を構えたことも理解できる。

 3つ目は、徐福とともに集団渡来した数千人は始皇帝の圧政を良しとせず、争うことを好まず、むしろ弥生人たちにかくまわれながら生活したのではないか。その中で大陸の優れた技術力で弥生人を「教育」し高度な発展を急速に推し進めることが出来たのではないか。

5-3 徐福再びの移動、出雲王国へ

 兼久神社に残された記録によると、徐福は弥生人女性りみを残して東方に再び出発した。勿論、共に九州に渡来した数千人皆が移動したわけではない。おそらく何割かを連れて良質な砂鉄の存在する場所や稲作に適した土地を求めてのことであろうと推定する。その後の足取りに関する手がかりはこれまで一切発見されていない。

 しかし出雲地方や吉備地方には金属精錬技術に秀でた渡来人を多く召抱えた地方豪族が弥生中期より存在し、徐福集団の末裔との関連が指摘される。金属精錬技術者は徐福集団に限ったことではないが、特に出雲地方で活躍した渡来人系豪族の出土品と吉野ヶ里遺跡に代表される北九州の古代都市国家の遺跡には共通点が多く、人的交流以外にこれを説明できない。

里巫女伝説


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