巌流島到着


唐戸から巌流島、門司とつながるチケットを500円で買って、巌流島に到着した。唐戸から巌流島へは航程10分ほど。

渡船から降りたお客さんが浮き桟橋から巌流島に上陸する様子。右はたった今到着した、関門汽船の渡し船。


今日は日曜日なので門司行きの便が少ない。巌流島の時刻表は日によって張り替えられるようになっている。今日は門司行きの便がスコーンと抜けていて15時30分まで無い。時間がありすぎる位あるので、巌流島をゆっくり見学しようと思う。


待合所のおじさんに 「巌流島は何にも無いから、時刻表を考えとかないと時間をつぶすのに苦労するよ」 と言われたのだが、便があったので来てしまった。着いてみると笑ってしまうくらい、こんな感じ。

巌流島案内

現在の大きさ 103,000㎡
埋立て前の船島の大きさ 17,000㎡
住所 下関市大字彦島字船島648番地
巌流島の案内板より転載
現在の面積と埋立てられる前の面積が6倍ほど違う。住所もあるけれども住民はもちろんいない。


上の案内板の中で埋め立ての地図だけを切り出した。埋め立て前の形は船の形をしており、正式名称は船島(ふなしま)。埋め立て前の形を中心として公園として整備されているが、埋立てられた部分の大半はかつて軍事用に三菱重工業が埋立てたもので、現在も三菱重工業の私有地となって立ち入り禁止となっている。

下関と龍馬

龍馬とお龍も巌流島に上陸?
巌流島は、慶長17年(1612年)4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地として広く知られていますが、実は坂本龍馬の逸話も残されています。
慶応3年(1867年)春、下関(本陣 伊藤邸)に世帯を構えた坂本龍馬とその妻お龍、ある夜、巌流島にこっそりと渡り、花火を打ち上げたと、後年、お龍が語っています。
そこで花火を上げたかは皆様の想像にお任せいたします。

お龍
天保12年(1841)~明治39年(1908) 写真提供:井桜 直美氏

坂本龍馬
天保6年(1835)~慶応3年(1867) 
三吉治敬氏蔵 米熊・慎蔵・龍馬会管理

この説明版は、蒸気帆船(黒船・ユニオン号・いろは丸等)の操舵や帆をイメージし、市内に点在する龍馬ゆかりの地に設置しました。
平成22年8月吉日
下関市長 中尾友昭
下関市観光施設課の説明版より転載
大きな写真も載っていて、お龍さんは細面で魅力的な女性であることが良く判った。