ふくの像



境内でひときわ目を引く巨大なふく(ふぐ)の像。結構新しい印象を受けたら平成2年に再建されたものとの事。前代は戦時中の金属供出のため消失していたという。ふく(ふぐ)の銅像としてはもちろん日本一の大きさで、他にそんなものがあるのかも知らない。

ふくの像の横には像の歴史が詳しく書かれていた。文字のほうが浮き上がっている為か、文章は平易なのに陰が出て読みにくいのだが、テキストに書き出してみた。

ふくの像

下関で河豚を「ふく」 と清音で呼ぶのは、わが国最古の分類体漢和辞書「倭名類聚鈔」 が「布久」 と読ませていることにも裏付けられこれを 「福」 につないで文字通りの海の幸とするのである。この魚の美食の系譜は遠く先史時代にさかのぼり、下関市安岡の潮待貝塚で発見された骨片は、人と河豚の出会いを物語っている。中国北宋時代の詩人梅尭臣は「貴きこと魚鰕に数えず」 と詠んで河豚を賛美した。爾来古今の文人こぞって噛みしめるその淡白にして奇奥はかり知れぬ絶妙の味をたたえ、諧謔にとんだ嘉魚の姿を愛してやまなかった。明治20年ごろ、初代内閣総理大臣伊藤博文公は来関の折河豚を食べてその美味に一驚し、山口県令に勧告して違警罪即決例にあった河豚食の罪日を削除させたという。全国に魁た解禁の町であることも本場下関の誇りとするところで、平成元年には山口県の県魚に河豚が選定されたが、近年欧米人の間でも日本の特異な食文化としての河豚料理に関心が高まりつつある。昭和初年、亀山八幡宮表参道の一隅に建てられた河豚の像は、伝統の味覚を象徴する馬関の名物として市民に親しまれ、旅行者の目を楽しませていた。戦時中の金属供給で姿を消してから半世紀を過ぎたが、このたび河豚への深い感謝と愛情をこめ、関係者一同戮力して関門海峡を見下ろすこの神域に、幸福をまねく波乗りふくの像を復活させた。郷土の夢と発展を託す あかがねの魚像に栄光あれ。

      平成2年盛秋    吉川薫書
ふくの像解説プレートより転載


ふくの像のとなりにピカピカの亀の像ある。平成14年2月に奉納されたとの事なので、まだ表面が光り輝いている。浦島太郎の亀かと思いきや、伊藤博文公を、かつて此の場所にあった「お亀茶屋」 のお茶子が刺客から助けた場所なのだそうだ。

伊藤博文公夫妻史跡 「お亀茶屋」 跡

幕末のころ北前船の寄港地をして海陸物産が集散し西の浪華として栄えていた下関の街を、明示維新の志士たちが繁く往来していました。
慶応元年(1865)の初夏、刺客に追われた伊藤博文公は亀山八幡宮の境内で、茶屋のお茶子だった木田梅子に助けられたのが2人の出会いで、その1年後に夫婦になりました。
伊藤公は明治新政府を樹立し、初代内閣総理大臣として日本の近代化と発展に身命をなげうち、明治の元勲と称えられる伊藤公と、公を支えた梅子夫人が結ばれたゆかりの場所です。
   ”国のため光をそへてゆきましし
       君とし思へど悲しかりけり”(梅子)
夫人は大正13年(1924)に77歳で亡くなりました。
                芳梅会
伊藤博文公夫妻史跡 「お亀茶屋」 跡解説板より転載

明治維新の時に開国を迫る米仏蘭英に対して長州藩は、この場所を始め関門海峡の狭い各所に砲台を築き全6回の攘夷戦を挑んだ。

亀山砲台跡

江戸末期、開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国にさきがけ外敵防禦策をとり、長州藩毛利元周公は亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。
文久3年(1863)5月11日午前2時久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台から発射され米仏蘭3国相手に6回にわたる馬関攘夷戦の火ぶたがきられた。
同年6月1日、藩主は亀山八幡宮に夷敵幸福を祈願した。敵弾は楼門をかすめただけで社殿守兵とも損傷なく、時の人はこれ神威なりと矢よけ八幡宮と称えた。
翌年8月の4カ国連合艦隊襲来により攘夷戦は幕を閉じ、開国、尊王倒幕を経て、明治維新へと急速に時が流れた。
亀山砲台はまさに近代日本の幕開けを告げる第一弾を発射したのであった。
                     下関市
亀山砲台跡案内板より転載
現在では何も無く案内板が立っているだけだが、砲台は6回目の攘夷戦での降伏時に全てを破壊、または戦利品として各国が持ち帰ったという。