関門トンネル人道下関側


エレベーターで地上に上がると目の前に料金表が飛び込んできた。

歩行者の通行料金は無料で、自転車や50cc以下のバイクは20円。お賽銭の様に箱に入れるシステム。一応係員が常駐して見ているし、20円だからごまかす人も居ないだろうが、毎日チャリーンと音を聞いている係員は、たぶん音で金額を聞き分けられるようになっていると思われる。


下関側の関門トンネル人道入口。たまたまだろうか、可愛い女忍者が入口で歴史紙芝居をやっていた。


関門トンネル人道の下関側をエレベーターで登った前一帯は広場になっていて、池の中に石柱が建っている。どうも上部から水が流れる仕組みのようであるが、当日は水も流れず下に溜まってもいなかった。石柱の先方に 「関門隋道建設の碑」 が石柱を正面から見下ろしていた。

関門隋道建設の碑

関門隋道建設の碑
建設大臣 根元龍太郎

関門海峡早鞆の瀬戸はその幅僅か700メートルに過ぎないが瀬戸内海の咽喉元部に位置するため潮の流れが速く本州と九州との隔たりを一層遠いものにしていた
これを海底隋道によって直接結ぶことは国民の久しく念願していたところであって自動車交通の発達に伴い道路隋道の早かなる開通が望まれること切なるものがあった
昭和の初年国道ともってこれを結ぶことが企画され昭和14年先ず試掘隋道を完成し引き続いて同年から十箇年継続事業として本隋道に着工した
たまたま第二次世界大戦に際会し工事は困難を極めたが昭和19年12月前線の導抗を貫通した
しかるに同20年6,7月相次ぐ戦火を蒙り工事は一時休止するのやむなきに至り工事再開の目途の立たないまま6年間の維持工事を行うに止まった
昭和27年に到って道路整備特別措置法による有料道路として工事を再開し同33年3月9日開通の運びとなったものである
着工以来実に20有1年我が国土木技術の粋と人の和によって築かれた画期的大事業であってその間建設に従事した者450万人 職に殉じたもの53人 総工事費57億円の多きに達している
かくてここに国民の久しい間の夢が実現したのであるがこの隧道の開通によりさきに完成した鉄道隋道と相まって本州と九州との結びつきが一層緊密となり日本民族の反映に寄与するところ極めて大なるものがあると信ずる ここに関門隋道の竣功にあたり建設の碑を建てる

昭和33年3月
関門隋道建設の碑より転載

関門隋道建設の碑のすぐ横に関門国道建設事務所の初代所長加藤伴平氏のレリーフがはめ込まれた記念碑が建っている。トップとはいえ工事現場の責任者の像が建てられることはまれなことなのだろうが、亡くなってから2年後に完成したことと、建立者が当時の関門国道トンネル従業者一同となっていたので、生前随分部下にしたわれた人徳あるトップであったろう事が想像できた。

加藤伴平(1896-1982)

 人の才を集めて成りし水底の
   道にこの世はいやさかゆかむ
 この和歌は今生陛下の御製であります
関門国道トンネルが昭和33年3月9日開通してからひと月後4月7日に陛下は皇后様とご一緒にこのトンネルの人道を歩かれたのち 掠野から門司へぬけられました そのときお詠みになったものと承っております
加藤伴平さんは いつも常々この御製を拝誦されておりました
昭和の初期には 早靹の瀬戸にトンネルは出来ないといわれておりましたが 世界的な視野から研究されて出来ないことはないと決断され決行されたのが関門国道建設事務所の初代所長加藤伴平さんであります
伴平さんは 昭和57年10月 86歳で東京都葛飾区で永眠されましたが 本当に永眠されているところはこの水底ではないでしょうか
昭和59年三月吉日

関門国道トンネル従業者一同
富樫凱一撰文
富樫凱一撰文より転載

広場にあった観光案内地図から下関と門司を中心とした関門海峡部分だけをピックアップしてみた。下関市の観光案内図なので山口県側の観光スポットだけが載っている。