赤間神宮


みもすそ川公園から関門橋の下を抜けて西に進んでいくと右手に立石稲荷大明神の赤い鳥居が山に向かって並んでいる。

鳥居をくぐって上って行くと紅白の踊り場が2段になっている。これは関門海峡を望める小さなポイントかも知れない。


崖に沿って縦に並んでいるので対岸から見ると赤い謎の塊に見える。


さらに進んでいくと赤間神宮の竜宮城のような造りの水天門が見えてきた。赤間神宮は源平壇之浦の合戦で満6歳で入水された安徳天皇を祭神とする神宮。


赤間神宮の正面鳥居。石段の上、太鼓楼の前に超巨大な絵馬が飾ってある。


大鳥居の横に立つ赤間神宮の大きな門柱。後ろの案内板は赤間神社の案内かと思いきや、関門海峡一帯の下関側の観光案内図だった。


鳥居をくぐって進むと石段があり、石段の正面は太鼓楼。右手の竜宮城風の建物が水天門。水天門の下の石垣は太閤石と呼ばれている。太閤石にはしめ縄もつけられていた。


大鳥居を入った左手に赤間神宮の境内の案内図があるので、全体がわかりやすい。赤間神宮には見所が多いため、当日も多くの参拝客で賑わっていた。

水天門の下の石垣が太閤石と呼ばれている由来が石碑に記してあった。

太閤石由来記

波の花散にしあとをこととへは
 むかしなからにぬるふ袖かな

天正15年3月太閤秀吉は 安徳天皇廟前に先帝御影を拝して献詠 是より先大阪の築城に全国より礎石を集めしむ 即ち肥前国龍造寺隆信 弐百余の石を献せむと海峡に到るや関門の急潮に遼巡日ならず 城既に成るを聞き是を海中に投して去れりと 潮音星霜380歳 昭和42年12月運輸省第4港湾建設局 是を引揚げ赤間神宮に献ぜらる 以て往古の秀吉が志を蘇らしめむと石組を図るや市民崇敬会奉賛し龍宮神鎮の般境竣成す

赤間神宮 宮司 木野久直撰
      江舟 田中育馬 書
赤間神宮 太閤石由来記の石碑より転載
つまり、大阪城築城の際、肥前の国の領主龍造寺隆信が石垣に使う200余りの石垣用の石を秀吉に献上するため、関門海峡を通ろうとしたが、潮の流れがあまりに速くて通過できない。そのうちに大阪城の石垣が完成したとの知らせを受けて、運んでいた石を赤間の海に捨ててしまう。
昭和42年になってその石が380年ぶりに引揚げられ赤間神宮に奉納された。
という歴史の話で、動物も植物も時間が経てば朽ちていく運命なのだが、石だけは時の流れに強いものだと考えさせられる話だ。そういえば年をとると石に興味がわき始めるし、自分の石碑やら像などを残したくなったりすると、人もそろそろ終わりに近いらしい。