
維時昭和20年7月2日大東亜大戦の空襲を蒙り赤間神宮は神殿其他営造物の一切を失ひ給ふ同8月25日終戦の大詔渙発官幣の神祗制度廃止さるるに及び氏子なき當神官最も艱難の日は始まり世状亦混沌として適帰するに虔をしらず同22年8月元貴族院議員秋田三一この惨状を見るに忍びず奉賛会を結成して先づ本殿祝詞殿の復興成り漸く神聖雨露を凌ぎ給ふを得たり かかる中に 高松宮宣仁親王殿下 義宮正仁親王殿下の御参拝相ふぎ頂いて同33年水天門の竣功を見るや 天皇皇后両陛下九州路行幸啓に際し4月7日御親拝御通り初めの栄を賜ひあまつさへ御製一首を下し給ふ 神域為に生色蘇り社務所水天閣の建立も亦成る 偶〃同38年9月皇太子殿下御参拝の御事あり次いで同年10月山口県国民体育大会に御臨幸の 天皇皇后両陛下には侍従入江相政をして御代拝を仰付けられたり 皇室の御尊崇一方ならず神宮崇敬者の感激筆舌に尽くし難きものあり 機将に熟すと請はむか折しも太陽漁業株式会社代表取締役中部利三郎 神宮の復興と郷土の発展を促進すべく龍宮会を興し奉賛会を援けて以て拝殿以下残餘計重一切の完了を期するや奉賛会龍宮会全市民舉りて事業完遂に遭進至誠奉仕の下見事に此の奉建を達成せり 事遂に上聞に達し 天皇陛下には特旨を以て造営資金の御下賜を仰せ出させ給ひ滋に古今未曾有の盛事として 先帝780年大祭を挙行しえんぬ 苦節苦闘20年昔日に倍して輪奐の美彌〃魂麗を誇り関門の風光又相和し相呼応して幽玄を自在と丹青典雅の王朝美は厥の粋と妙と荘厳の委曲しに極る脚下に壇之浦を睥睨し眉宇に九国を指顧して遥に 祭神御在位の日を追憶すれば感慨轉た無量 神霊納受して皇室と国家の永遠郷土市民の隆昌と安泰に恩賴を垂れ給ひ 霊威発動する處世界の平和安泰と秩序に慈愛を清和温雅のきょうを旋し給はむことや必せり げんに神宮復興の由来を叙し聊か本碑を建立すと伝爾
昭和40年乙巳歳次
題簽 神社本廰總栽 明治天皇第七皇女 勲一等周宮房千内親王殿下
撰文 国学院大学教授 文学博士 従六位 高崎正秀
山口大学講師 江舟 田中育馬謹書
赤間神宮復興の由来碑より転載
安徳天皇阿弥陀寺陵

此処は人皇81代の安徳天皇阿弥陀寺陵です
今から800年前源平の合戦で壇の浦に御入水の後御尊体を奉じて御廟所が造営され明治維新を経て現在の御陵となりました
どうぞ御参拝くださいませ
安徳天皇阿弥陀寺陵入口の立て札より転載

安徳天皇の御陵の前に来たが扉が固く閉まっていて、中に入ることは出来なかった。それでも何とか中を見たいと思っていると、左右の格子の隙間から少しだけ中の様子が見えそうだ。

とうわけで、格子戸のわずかな隙間からレンズで覗いてみた。安徳天皇阿彌院寺陵と刻まれた墓標が確認できた。