水天門の中から眺めると石段の先に赤間神宮の拝殿が見える。ここから見えるのは外拝殿で先に内拝殿があり、その先に本殿がある。門の中には朱の扉があって、扉には菊の紋が付けられている。
寛仁親王殿下が書かれたという水天門の揚額。門の前まで入ってしまうと角度的に額は見えなくなる。水天門は昔話浦島太郎の我々が思っている龍宮城のイメージで造られているため、別名 「陸の龍宮城」 とも呼ばれているらしい。
水天門をくぐると境内に薄墨の松がある。
足利尊氏が赤間神宮を参拝した際
いづくより名をあらはさむ薄墨の松もる月の門司の夕暮
と詠んだことから「薄墨の松(うすずみのまつ)」と呼ばれる。
戦災で先代の松は消失し、この松は2代目。
安徳天皇神徳記
赤間神宮御祭神人皇第81代安徳天皇は寿永4年(1185)3月24日源最後の合戦壇之浦の御戦に於いて御祖母二位の尼に抱かれつつ、『波の下にも都の候』とてわたつみの底深く幸し給う。宝算わづかに8歳。平氏一門ことごとく御跡に従へり。痛恨云はむ方無けむ。今に平家物語に哀韻を伝へて余りあり。
しかはあれ、わたつみの都は即ち龍宮にして一切生命の胎宮なり。されば、天孫降臨の後地神二代ヒコホホデミノミコト、(山幸彦)は龍宮に潜幸して潮満潮千二宝珠を得て皇位を践み給ひ、三代ウガヤフキアヘズノミコト四代ワカミケヌノミコト(人皇第一代神武天皇)、いづれも龍神を母とし給ひて万世一系天壌無窮の基をなぜり。
これ龍宮水徳深々微妙の先蹤なり。
降って人皇第81代に至り再び龍宮に入り給へるは本有の胎宮に帰り給ふ神慮と拝すべし、けだし乱世の汚穢を滌ぎ神国再生の秘儀を視察し給ふ神蹟と称すべきか。噫畏しとも畏く、尊しとも尊。
これ御祭神を龍宮神鎮の水天皇と称へまつる深義にして広くは龍宮無限の水徳を万民生活の上に開き給へる所似なり。よってここに無辺の水徳を仮に約めて十徳となし神威奉載の準拠を示す。
国家鎮護・大漁豊満・懐胎安産・水難祓徐・産業発展・家内和合・福徳延命・病魔降伏・転禍為福・開運必勝天下老若善男善女、願わくは宝前に結願して神威の至福にあやからむことを。
安徳天皇神徳記より転載
薄墨の松を遠くから眺めてみるとヒョロヒョロと一本だけ伸びた枝があって大切に下から棒で支えられていた。これ以上伸びたら建物にぶつかりそうなのでどうするのだろうか。切った形跡は無いのでやはり直角にでも曲げて伸びて頂かなくては。
大連の獅子
この獅子一対は、中国大連の花崗岩を現地彫上げ、大連神社全国氏子有志の手によって運び、平成7年10月1日赤間神宮大前に奉納されたものです。神前に向って右側の玉を手にする方が父獅子、左側の子獅子を押さえている方が母獅子で、口中の玉は石彫の過程で仕上げており、あとで入れたものではありません。頭から台座まで見事な出来映えの獅子であると申せましょう。
大連の獅子の解説より転載
左が子獅子を押さえている母獅子、右が玉を持っている父獅子。言われて初めてわかるこの細かすぎる違い。
阿吽の狛犬とは違い、どちらも口を開いている。