八十斤長州砲の前には立派な大理石(たぶん)の石のプレートが設置してある。
五基の八十斤長州砲のならびに東屋があって中に小型の天保製長州砲のレプリカが鎮座している。休憩所なので中のベンチに人が座っていることが多く、この長州砲を詳しく見学しようとすると結構ハードルが高かったりする。
この天保製長州砲はレプリカとはいえ、同寸で非常に精巧に出来ていて、歴史的にも興味深い。西欧ではこの時期に大砲の材料は鉄に切り替わっており、近代戦には非力であった事が容易に想像できた。
台座の部分には、このレプリカの製作者と寄付者の事が記してある。
天保製長州砲(写)
下関東ロータリークラブ
創立20周年記念
昭和60年6月
磯辺鉄鋼株式会社製
この天保製長州砲のレプリカがここに設置されるまでの経緯が詳しく書かれていたので転載しておく。
天保製長州砲
幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿を消していた。
1966年春、渡欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴィリッド博物館に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに到った。この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了解を得、創立20周年記念事業として、これを原寸大かつ精密に模造し下関市に寄贈した。
同長州砲は天保15年(1844)萩藩の鉄砲家郡司喜平治信安の手になるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。
鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとするのは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかならない。
天保製長州砲の解説プレートより転載
長州砲の写真付きの解説もあった。
長州砲[八十斤加農(カノン)砲]
文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)。翌年8月、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。海峡の最も狭い所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する原動力となりました。
長州藩の主力となった加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球形の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものでしたが、連合艦隊の新しい大砲は距離・威力ともにはるかにすぐれたものでした。
この大砲は、幕末に数多くの大砲を鋳造(ちゅうぞう)していた長州藩の安尾家に伝わる20分の1の模型(下関市立長府博物館蔵)を参考に、原寸大に復元したレプリカ(FRP製)です。砲身に刻まれた文字は、パリのアンヴァリッド軍事博物館が所蔵している、これとほぼ同型の長州製青銅砲の砲身を模刻しています。
下関市 [監修/古川薫(直木賞作家)]
長州砲の解説パネルより転載
写真の部分を拡大してみる。
四国連合軍に占領された前田砲台(ベアト撮影)
(下関市立長府博物館蔵)
フェリーチェ・ベアトはイギリスの写真家で、明治時代初期に我が国を撮影した多くの写真が残っている。
馬関戦争図(壇之浦砲台):藤島 常興 筆 (下関市立長府博物館蔵)
壇の浦を航行する四国連合艦隊と五基の長州砲が交戦している様子が描かれている。