鎌倉江の島金沢名所柴折
鎌倉江の島金沢名所柴折(しおり)
明治二十年三月十日初版発行
大正三年三月二十四版発行
神奈川県高座郡藤沢町藤沢七二八番地
編集兼発行者 川上安次郎
同県同郡同町七六一番地
印刷所 三光堂印刷所
全17ページ中、江の島、金沢に関連した7ページ分を掲載
江島
江島は鎌倉の西にある孤島にして一筋の砂地を通じて片瀬に達する 断崖絶壁樹木うっそうとして酒楼櫛比(しゅろうせつひ)す 全島尤も風光(けしき)に富み石段迂回して三祠を建つ 辺津中津奥津というすべて県社に列す この地東京に近き勝地たるを以って春夏の間常に都人の足跡を絶たず
龍窟
奥津宮を西に下り崖に沿って左すべし巌口南に向き広きこと丈余内弁財天を安置す 深奥幽暗常に燈火を点ず今入ればいよいよ狭く行くこと四十余間 分かれて二穴となり又入ること二十余間 各島神を祭る これより深く造る所をしらず
古碑
辺津宮の後ろにあり相伝う僧侶栄国より伝えしなりと碑面欠け磨れ文章明らかならず 僅かに篆額(てんがく)の大日本江島霊跡建寺之記と三行の文字を存するのみ 五百年前の物たるや疑いなし
稚児ヶ淵
往昔(むかし)建長寺に自休臓主と云う僧あり 弁天へ一百日参詣をし成せし時鶴ヶ丘相承院の稚児白菊に巡り合いし恋慕惜く能はず再三之に強挑みしかば白菊一夜逃れて此処に来り扇面の二首の和歌を認め舟人に託して云く 若し我を尋ねる者あらば之を見せよとて之深淵に投身す 自休追い至り悲惜に耐えず又其淵に沈むと云う 僧は奥州信夫の人という
しらぎくと忍ぶの里の人間はば想い入り江のしまと答えよ
うき事を思い入り江のしまかげに捨つる命は波のしたぐさ
魚板石(まないたいし)
島の西端に有り平扁にしてムシロの如く座して山水の風景を望むべし石上に碑あり 佐羽淡斎(さわたんさい)の詩を録す
瓊沙(けいさ)一路截(いちろたつて)、路通孤(みちをつうじこ)、嶼崚(しょりょう)ソウソバダツ、海中潮浸龍王宮裏月、花香天女廟前風、客楼斫(かくろうきって)鱠糸々(かいをし)白、神洞焼、燈穂々紅幾入蓬莱諳秘跡不須幽討債仙童
旅舎だより
恵比寿屋 茂八 鳥居ノ左
岩本楼亮泰 同右
さぬきや八良右衛門 同上
江戸屋 忠五郎 鳥居ノ右
金亀楼 昌延 石ノ鳥居ノ左
北村屋忠右衛門 同左
金澤
金澤は武州久良岐郡の東端なる有名の佳境なり 西南北は山を負い東一面は海に濱(ひん)す 風景明美にして近く野夏の群島に向かい遠く房総の緒山を望み天青く水蒼くして漂妙究りまし この地鎌倉に近きを以って古来その風俗を等しうし興亡盛衰を共にす 昔北条実時の封邑にして四代相次ぎ之に居る故に制を金澤氏と云う 近代は米倉丹後守の封地なりしが明治維新県治に属す
能見堂八景
明僧心越嘗てシャウシャウの八景に擬し金澤の全景を品す世に所謂洲崎嵐瀬戸秋月、小泉夜雨、乙鞆帰帆、称名寺晩鐘、平潟落雁、野島夕照、内川慕雪、是なり能見堂は称明寺より西北に当る山上にあり八景の眺望ここに如くものなし
称明寺
町屋村にあり金澤山と号す 越後守北条実時の創立にして開基を審海和尚という 境内弘宏最も静粛なり 青葉楓西湖梅文殊普賢の桜等ありしが今は僅かに孫樹の存在するのみ
文庫遺跡
称明寺境内にあり文永年中時の建設にして広く和漢の群書を集め朱墨を以って儒佛に分ち殆ど二酉の富に駕せりという当時学校を起こし生徒を徴しすこぶる盛大なりしがしばしば兵乱に遭遇し遂に廃頽(はいたい)せり 誠に惜しむべし