何?弁天小僧は江の島岩本院の稚児上がり


1862年の三面記事

河竹黙阿弥の13世市村羽左衛門に書きおろした新作「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ:白浪五人男)」に登場する小悪党「弁天小僧菊之助」は江の島岩本院の稚児上がりとか。
芝居の中で本人がそう言っているのだから間違いない。
何しろお賽銭泥棒に始まり、岩本院の江の島参詣の宿泊者の財布抜き取りから女装して美人局までやるに及んでは笑って済ませられない。
だが、この小悪党は美化されていて中々楽しく痛快に描かれている。
岩本院はどう思っているのだろう。



河竹黙阿弥(かわたけもくあみ 1816~93)

江戸時代末~明治中期に活躍した江戸歌舞伎最後の狂言作者。
生涯に活歴をふくむ時代物90編、散切物をふくむ世話物130編、浄瑠璃、所作事あわせて140編、合計360編の驚異的な作品数を残した。

青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ:白浪五人男)

弁天小僧で知られる江の島の岩本院の稚児を題材にした
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ:白浪五人男)」は
白浪物(しらなみもの)と呼ばれる泥棒や小悪党の主人公を美化した作品の一つで
彼の修行時代に続く第2期1854年(安政元)~66年(慶応2)の作品に属し、
のちに5世尾上菊五郎(1844~1903)となる満17歳の13世市村羽左衛門のために書いたもの。
1862年初演で通称は「弁天小僧」と呼ばれる。
日本駄右衛門(にっぽんだえもん)、南郷力丸、赤星十三郎、忠信利平、そして弁天小僧の5人の盗賊の大活躍が描かれる。

浜松屋の店で女装した弁天小僧が諸肌脱いで啖呵を切る場面。

科白(せりふ)
知らざあ云って聞かせやしょう、 浜の真砂(まさご)と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種(たね)はつきねえ七里ヶ浜、その白波の夜働き、以前を云やあ江の島で、年季つとめの稚児が渕(ちごがふち)、江戸の百味講の蒔銭(まきせん)を当てに小皿の一文字(いちもんこ)、百が二百と賽銭のくすね銭さえだんだんに、悪事はのぼる上(かみ)の宮、岩本院で講中の、枕さがしもたび重なり、お手長講(てながこう)と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆のつつもたせ、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた祖父(ぢい)さんの、似ぬ声色(こわいろ)で小ユスリタカリ、名さえゆかりの弁天小僧、菊之助という小若衆さ

稲瀬川で五人の盗賊が勢ぞろいして啖呵を切る場面。

科白(せりふ)
さてその次は江の島の、岩本院の稚児あがり、ふだん着馴れし振袖も髷(まげ)も島田に由比が浜、打ち込む浪にしっぽりと、女に化けたつつもたせ、油断のならぬ小娘も、小袋坂に身の破れ、悪い浮き名も竜の口、土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡さまの氏子にて、鎌倉無宿と肩書きも島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助

物語とはいえ、自分の所の稚児を盗賊にされた岩本院は複雑な面持ちだろうが、弁天小僧が岩本院の稚児上がりというのは「白浪五人男」が書かれた100年以上前の延享4年(1747)ころに芝居にも登場する日本駄右衛門(にっぽんだえもん)という大泥棒が遠州見付の町外れで、一味共々獄門にかけられた話と岩本院では給仕を稚児が担当していたのを抜群の創作力で結びつけたものと思われる。


一口豆知識

獄門:江戸時代に行われた死刑の一つ。
通常の死罪より重い罪で首を獄門台や刑場の門にさらしものにして見せしめとしたもの。
もっと重い死刑は火あぶりの刑であり、一番重いのが磔(はりつけ)で槍で聴衆の面前で突かれるもの。

岩本院の談話:

イヤー参っちゃうなー。ここの稚児が皆泥棒に思われちゃったらどうすんだよ。昔は僧侶に言い寄られて身投げ事件も起こしているしなァ。
でもカッコ良く出来てるし、宿の宣伝になるからマ良いか?今や、コマーシャルの時代だもんねー。
江戸の市村座とか中村座とかでジャンジャン公演してくれたらここのお客さんも増えるかもね。燈篭も江の島にもらっちゃったしな・・・・

(中津宮前に市村座と中村座が江の島信仰のお礼として建てた燈篭が実在)
徳川幕府15代全将軍