水戸光圀江の島を訪れる


延宝2年(1674)の三面記事
天下の副将軍徳川光圀(1628~1700)様御一行は旅の途中、初代将軍家康公の信仰厚い江の島に立ち寄った。
宿泊はもちろん岩本院で厚いもてなしを受けた。


うっかり八兵衛:

何しろ江の島っていやァ、魚に貝、海草にウニと海の幸満載だもんねー。ご機嫌ですよねー。サービスも満点だし。

助さん:

本当に八兵衛は食い物の事になると目の色変えやがって、さっきも女夫饅頭30個食ったばかりじゃねーか。又、腹こわして医者に迷惑かける事になるぞ。

越後のちりめん問屋のご隠居:

フォフォフォフォフォフォ。誰か江の島で悪いやつは居ないか探してらっしゃい。フォフォフォフォフォフォ。

格さん:

ご隠居、もうバッチリバレバレですよ。島中で、光圀様ご一行が岩本院に泊まってるの知ってますよ。

越後のちりめん問屋のご隠居:

1箇所で一人は悪いやつ懲らしめないと気が済まないんだよねー。フォフォフォフォフォフォ。

お銀:

ご隠居は何時も印籠の用意だけはバッチリですものねえ。何時も暇があれば磨いてらっしゃるし。

野猿:

この人達と付き合うと疲れるから岩屋に行って一人で手裏剣の練習でもしてこよーット。


徳川光圀(1628~1700)

は水戸藩の第2代藩主で水戸光圀、水戸黄門とも呼ばれる。
大日本史(1657年編纂開始され1906年に完成の397巻226冊の大歴史書)の編纂で知られ水戸学(徳川光圀の大日本史編纂を中心とする水戸藩に発達した尊王論を基盤におく独自の学問。前期水戸学にあたる。)の基礎を築く。安積澹泊(あさかたんぱく。渥美格之丞のモデル)佐々十竹(ささじっちく。佐々木助三郎のモデル)らが日本中を取材旅行した。
彼らは水戸藩士であるので武術の心得は多少はあったであろうが本来学者であり、とても「こらしめてやりなさい」のひと言で悪人をバッタバッタと言う訳には行かなかったと思われる。
光圀自身は年中旅をしていたわけではなく実際には家臣が日本中を飛び回って大日本史の編纂をしていたのである。迷惑な上司かも知れない?

光圀の事を扱った伝記「桃源遺事」「久夢日記」などが実録「水戸黄門仁徳緑」を生み、先の家臣達の大日本史編纂旅行と上手く組み合わせて後の水戸黄門漫遊譚(まんゆうたん)になったと思われる。
時代が下るにしたがって史実はよりデフォルメされ、現在TBSテレビで放映中の痛快時代劇水戸黄門漫遊記に至っている。 あんまり話を大きくしたらこらしめてやんなさい。梅里。

徳川幕府15代全将軍