(5)江の島まで
一同は稲村ヶ崎を後にして七里ヶ浜に向かう。七里ヶ浜とは稲村ヶ崎より腰越に至る一里余の砂州をいうのだ。少し来ると、日蓮上人袈裟掛けの松がある。どの枝に掛けたのか判らぬが、潮風に吹き曲げられた枝ぶりが実に面白い。誰の物であるか。根こそぎにして東京に持って帰ったら随分高値で売れるだろう。ここにいつまでも雨ざらしにしておくのは惜しいことだ。売り飛ばしては:甲斐の身延山に在します日蓮上人の霊が祟るかもしれないから、庭に植えたら罰も当たるまいが、どういうものだろう。余計なお世話とすると、頭が禿げる。j俺はまだ13歳だ、今から頭が禿げては大変だ。日本人は自分の事だけで足らず、よく他人のことまで心配したり余計なお世話と焼くので、早く頭が禿げるのかもしれぬ。つまり早熟早老の弊があるのだ。今日は馬鹿に足が軽い。ざっと一里ばかり歩いたが少しも疲れぬ。昨日青息吐息で足を引きずっていた太吉君もなかなか元気が良い。径に一筋の川が流れている。十間も手前からトットットッと元気よく走って来て、うまく踏み切ったら、ピンと飛び越えられそうな小さい川だ。しかしやり損なうと、川の中へザンブリぬれねずみにならなければならぬ。夏ならばその方が涼しいばかりか、着物の洗濯にもなって良いが今日は困る。
「ああ、危ない。よせ、よせ。」
というのに、基次郎君が一目散に飛んで来て、
「やっ」
と気合を掛けて踏み切ったが、飛び越えそこねて川の真ん中にザンブンを沈んだ。
「大仏様、濡れ仏。」
一同は口々にひやかして、ドッと笑っている。川の中から這い上がったまでは良いが草履を流して裸足になっている。着物を脱がせて、4,5人で水を絞ってやったが、懐の内側に入れてあった饅頭が着物の目からアンを噴出している。昔、日蓮上人が龍の口御難の時、刀の折れた不思議な印を知らせに行った龍の口からの使いと、鎌倉から来たゆるしの使いとがこの川の橋の上でパッタリ行きあった。しかし出会い頭の鉢合わせだけはしなかったと言うことだが、それからこの川を行逢川(ゆきあいがわ)と呼ばれている。行逢川を渡って近く江の島と望めば、その風景さながらいっぷくの絵のようである。
白砂青松の間を春風に吹かれつつ進み進んで行く。片瀬の海岸のつきる所が高い砂山になっていて、その傍らに松の木がこんもりと生え立っている。程なく腰越に着いた。今よりおよそ730年前、すなわち文治元年義経、壇の浦に平氏を滅ぼし、平宗盛父子を虜にして鎌倉に入ろうとした。然るに頼朝、梶原景時の戯言を信じ、腰越に関所を設けて義経を入れない。義経大いに困り、満福寺の池の水を汲み、恨めしげに筆を噛んで腰越状をしたため、これを頼朝に送って無実の罪を晴らそうと訴えた。けれども、とうとう許されず、やむなく京都に引き返したのである。満福寺に立ち寄って、硯(すずり)の池を見る。義経の心中が思いやられて、誠に悲しい。名の知れぬ小鳥が庭の木立の中で鳴いている。その音(ね)も悲しげである。満福寺を出て路を海岸に取り、小動岩に上がる。江の島は袖ヶ浦をへだてて呼べば答えそうである。指呼(しこ)の間にあるとは、こういう時に使う言葉らしいが、使ってみないとなかなか上手く使えぬ。文言をいうものは何でも事実に当てはまるように使わぬと死んでしまうものだなどと、また余計な事を考える。鍋のツルのように曲がっている袖ヶ浦の磯辺をたどって、海の彼方を見渡すと、満々たる大海の果てが遠く天と合する所に三浦半島が青螺(あおにな)のように横たわっている。白い鴎がうねりくねる波の上に腹をあてそうに低くフワリフワリと飛んでいる。漁船があちこちに浮いていて、少しも動かない。向こうの方には汽船が黒い煙を吐いて航海している。俺はまだ船に乗ったことが無いので、船を見ると、どうも乗って見たくてたまらない。海国男子に生まれて船板の底が地獄だなどと海を恐れていては駄目だ。江の島に行ったら、一つ先生に願って船に乗せてもらうことにしよう。ああ、すぐそこに江の島が見える。