鎌倉江の島地理歴史4


面白くてためになる
小学生読み物

大正六年十二月一日印刷
大正六年十二月十日発行

鎌倉江の島地理歴史
山田史郎著
東京 広文堂書店発行

(7)片瀬と藤沢

砂州は砂が草履を吸いつけるので、誠に歩きにくい。砂山を一つ越えると、形の良い松が道を挟んで生えている。後ろを振り向けば、江の島はまた来てくれと言わんばかりの姿で浮かんでいる。誠に名残惜しい。一同は一足ごとに遠ざかり行く江の島の青螺(せいら)を名残惜しげに振り返りながら片瀬を指して急ぐ。

片瀬は江の島と鎌倉へ行く追分で、左へ行けば旧跡の多い鎌倉、右に行けば飽かぬ風光に富める江の島だ。ここも又歴史に名高い土地である。すなわち治承の昔、頼朝が石橋山の戦いで苦しめられた大庭景親(かげちか)の首を斬ってさらしたのは正しくこの地である。紀元193,40年の頃、時の執権北条時宗が元の王フビライの無礼極まる文書を見て大いに怒り、
「相模太郎時宗の肝玉は瓶のように太いぞ。フビライなどに驚かされてビクビクする様な人間ではない。斬れ、殺せ。」
と命じて」、その使者杜世忠等5人の細首をブッツリ切ったのは、片瀬の東を流れる片瀬川の畔であった。後醍醐天皇の皇子宗良親王が、
「帰り来てまた見んこともかた瀬川、濁れる水のすまぬ世なれば。」
と読まれたのもまたこの片瀬川のことである。昔は片瀬川の東を唐土が原(もろこしがはら)といって、ナデシコの名所であったが、今はこの辺一帯の松林の中に別荘が建てられている。
片瀬の龍の口に龍行寺という寺がある。鎌倉松葉が谷に日蓮という僧があって、毎日2,3の弟子を連れて町に出て、四辻に立って説教していた。そしていつも、
「正しい教えは法華経ばかりである。他は禅宗でも真言でも念仏でも律宗でも皆邪教である。国を亡ぼす悪魔の教えである。何無妙法蓮華経、々々々々々々々。」と題目を唱えていた。始めは人々は大いに立腹して、
「この気狂坊主、何をいう。べらぼうめ、生臭和尚、馬鹿和尚ッ。」
と口々にののしり立て、或いは石を投げつけ、或いは棒切れを振り回すなど、たびたびひどい目にあわせたけれども磐石のように堅く、烈火のように熱い信念を持っていた日蓮は人々の妨害を少しも恐れず、毎日辻説法を止めない。反対してののしる者あれば説き伏せ、刃向かう者あれば放力をもって懲らしたので、後には法華経は実にありがたいものだと言うことが人々の心に判った。が、それまでの間の日蓮の艱難は実にひどかった。死ぬような辛い目にあった事も幾たびであったか知れない。日蓮は今より凡そ660年ほど前の正元元年かた文永八年まで十三年の長い間、たびたび時の執権に書面を出して、
「我が日本は目の前に大難をひかへている。よこしまな教えを信じて安閑としていると、必ず国が亡びる。文永五年後正月十八日の頃に蒙古の大群が押し寄せてくるから今の中に準備しておかなければならぬ。その時になってうろうろうろたえても駄目だ。」
ということを論じたのだ。これすなわち日蓮の有名な立正安国論というものである。しかるに文永五年になってもあいにく蒙古が攻めて来なかったので、北条時宗は、
「日蓮は仏法に事寄せて国を乱すものである。その罪は軽くないから、斬ってしまえ。」
と怒りだした。


文永八年九月、平左衛門、時宗の命により日蓮を捕らえて縛り上げ痩せ馬にムシロを敷いてその上に乗せ、300人ばかりの武士が厳重にこれを護りながら龍の口へと歩き出す。遠く海面を吹いて来て松の枝を鳴らす風の寒さは凛として刀のようである。あわれ、日蓮は罪人同様の姿で龍の口まで運ばれ、柵の中の石の上に座らさせられた。もう間もなく日蓮の首と胴が離れ離れになるのだ。柵の外には日蓮の弟子日郎・日新・日興・四條金吾等が涙ながらに「南無妙法蓮華経」と唱えている。磯打つ波の音がドドウドドウと聞こえて物凄まじい。時に依智直重、3尺2寸の名刀蛇胴丸をぎらりと引き抜いて、日蓮の後ろに立つ。「南無妙法蓮華経、々々々々々々。々々々々々々、・・・・・・・・・・・・、」と題目の声が盛んに起こる。直重小腰をかがめ涙をふるって、
「エッ」
と一声、気合をかけて振りかざし斬下ろした名刀が見る見るボキボキと3つに折れてしまった。平左衛門、依智直重を始め、厳かに居並べる一同の者ども之をみて大いに驚き、直ちに使いを出し
「日蓮の体はとても斬られませぬ。斬ろうとして振りかざした刀は3つに折れてござる。」
との申告状を持たせてやった。この時すでに鎌倉でも赦免状を出し龍の口に向かわせたので、途中で橋の上で両方の使者が出会ったのである。その橋のかけてある川は昨日の杢次郎がザブンと飛び込んで濡れ鼠となった行逢川である。二人の使者は申告状を赦免状を取り替えて、互いにいま来た道をとって返した。赦免状には
「日蓮の罪を許し、相模国依智郷依智本間重連の屋敷に預けておけ。」
と書いてあった。かくて日蓮上人の命が助かったのである。後弘安年間に至り、日蓮の弟子日法等が力をあわせて寺を建て、永く日蓮の屋敷を後世に伝えた。これすなわち寂光山龍行寺である。寺の境内に敷革石及び土牢がある。敷革石は当時日蓮が首を切られようとした時に座った石である。この話は如何にも俺の口からでたように書いたが、実は龍行寺の和尚さんが一同を集めて物語ってくれたのをそのまま書いたものだ。
龍行寺を出た一同は片瀬から電車に乗る。東京の電車は何処まで乗っても片道六銭、往復十銭だが、ここのは片道八銭だ。しかし俺は如何に親譲りの面の皮が厚くても
「高い。少し負けて下さい。」
とは言いかねた。俺は出すものは何でも男らしく出せという主義だから、八銭ばかりのはした金にけちけちせぬ。第一番に切符にハサミを入れてもらった。藤沢に着いたのは午後二時半だ。町の北の方に藤沢山清淨光寺という馬鹿に長たらしい寺がある。続に遊行寺といっているが、この方が余程呼びやすい。寺の開祖は一遍上人即ち遊行上人であって、この寺の住職になったものは誰でも一遍上人の真似をして諸国を遊行するので、遊行寺を言うのだと聞いた。諸国歴遊!!これは面白いことだ。俺もこの寺の住職につくも良いが、諸国といっても日本国中だけではつまらぬ。パリー・ベルリン・ロンドン・ペトログラード・ストックホルム・コペンハーゲンなどと世界各国を歴遊して歩けるなら、此処に踏みとどまって家に帰らずすぐ頭を丸め法衣をつけて修行してもいい。が、世界一周はおぼつか無いだろうから止そう。本堂の東側に小栗堂というのがある。530年ばかり前の応永年中、常陸の国小栗の城主満重がその子助重と共に関東管領足利持氏に背いてひそかに鎌倉に忍び入り、時機を待って持氏を殺そうとしていた。然るにあべこべに助重は横山安秀という者の手にかかって、危うく毒殺されそうになった時に照手姫という女がそれを知って助重にそっと教えてくれたので、幸いにも危うい命を取り止めたのである。後、助重、藤沢の遊行寺に入り頭を丸めて宗丹と称した。やがて京都に赴き、周文の門に入って大いに絵を学んで書工となる。狩野元信の如きは実に周丹の弟子である。世の中ではこの助重を小栗判官をいtt、芝居などに仕組んでいる。小栗堂はすなわち小栗判官を祭ったものであって、中に判官の愛馬鬼鹿毛のクツワと照手姫の鏡などを納めている。本堂の後ろに小高い山がある。一同は足軽々とその山に駆け上る。富士見亭という東屋に腰を下ろして、あたりを眺める。展望遠く開けて、鵠沼・腰越・片瀬・江の島など山海の風景が誠に絶佳だ。いつの頃か知らないが、かしこくも明治天皇が西国へ御臨幸の途中、ここに御車(みくるま)を駐め給い、富士見亭からこの風景をご覧遊ばして大いにお褒めになったということである。