鎌倉江の島地理歴史1


面白くてためになる
小学生読み物

大正六年十二月一日印刷
大正六年十二月十日発行

鎌倉江の島地理歴史
山田史郎著
東京 広文堂書店発行



はしがき

鎌倉は700年来の古い都であって、地理・歴史上随分参考となる事柄も多い。地は東京をさることあまり遠くなく、その日帰りの旅行さえ出来るので、日曜を利用して見物に出かける人が多い。また江の島は鎌倉見物に行った人は必ずまた江の島に立ち寄って、その風景の美を賞して帰る。
本編はその名のごとく実は鎌倉・江の島の地理と歴史を紹介したものであるからいながらにしてその根遺書旧跡を探ることが出来よう。しかしただ漫然と読まず、学習の参考にそなえ、あるいは後日この地を踏むときの栞となし、または紀行文を作るときの手引きにしてほしいものであるとは著者の希望である。その中に奈良・京都・東京・大阪等の地理歴史をも書くつもりである。よろしく愛読をたまえ。
大正6年12月1日    著者識

(1)鎌倉・江の島とはどんな所か


裸で道中なるものかとは、昔の人の言い草であるが、実際いざ旅をする段になると、とても裸で行けるものではない。しかしそれかと言って、着物を着けズボンをはき尻をはおり伽半(きゃはん)・草鞋(わらじ)などにしっかりと身を固め、帽子・手ぬぐい・手帳・鉛筆・握り飯・カバンなどとこも入り用、あれも用心のためと七つ道具を整えただけではまだ準備が足らぬ。何が足らぬ。遠足や旅行はよろしく身軽でなければならぬと、三、四日前から耳にタコの出るほど口癖のように聞かせていながら、待ちこがれていた旅行がもう明日々々という今日になって、
「皆の準備がたらぬ。」
とは如何に先生の仰せとはいえ、全く受け取れぬ話ではないかと、口に出して言わぬばかりの様子で30人ばかりの尋常6年生が互いに顔を見合わせている。途中で食あたり・水あたりなど、思わぬ病気にかからぬものでもないから仁丹と熊の胆を用意してある。何処で大便が出るとも限らぬから、一折半ばかりの漉き返しをカバンの底に畳み込んである。



たとえ握り飯が按摩の頭ほど大きくとも、外を歩けばとかく腹が空き易いものだからアンパンやら梨やらビスケットやらをちゃんと信玄袋に詰め込んである。これは内緒であるが、土地の名物は食っても見たかろう、珍しい物は買っても見たかろうと言って、昨夜お母さんがヘソクリの中からこっそり一円五十銭だけ奮発してくれた金ががま口の中に光っている。これまで永いこと、お母さんの晴れ着の間に挿まれていた五十銭銀貨・二十銭銀貨・十銭銀貨は今度俺のお蔭でまた娑婆に出るので、其の光り方がちがうようだ。お母さんは普段叱ってばかりいるが、俺が何処かへいくとなると、いつも、
「これ、興太郎。お父さんにだまっておいでよ。」
とヘソクリ金を出してきて、こっそりとつかませて下さる。有りがたいものだ。今度鎌倉から帰ってきたら、いつ何を言いつけられても、
「ハイ、ハイ。」
と快く聞かねばなるまいと、まだ鎌倉に行きもせぬ内に帰ってきてからの事を考えている。こういう風に手回しがよく心がけが良いと人間は一生困らぬものだ。おっと、これはしたり、話がとんでもない横道にそれてしまったが、明後日の朝の上り三番汽車でピッヨー、ガッタンと旅立つ一行二十七名の生徒はいずれも万事手落ち無く、準備を整えているにmのかかわらず、
「まだ不足がある。心を静かにして、てんでによく考え見るが良い。」
といくら先生が言っても、もう心は遠く鎌倉を飛び回り、江の島を駆け回っているのだ。
然るに教師は、
「一番大切なものを取り残しているではないか。」
と言いながら
「鎌倉とはどんな所か。江の島とはどんな所か。」
と、黒板に2つ並べて大きく書いて、その話を聞かせようと言った。旅行先の土地の地理や歴史・気候・産物・風俗などを調べずに、うっかり汽車に飛び乗ったら、めくらの京都見物と同じことだ。ただ時間を費やし金をかけて、何の得るところもないような旅行は実に馬鹿らしいではないか。その頃の世の中は少し金が溜まると、猫も杓子もすぐ欧米見物に出かけるようになったが、さていよいよ広い太平洋を越えて向こう岸のサンフランシスコに着いてみると、少しも言葉の通じないトンチンカンな連中が多い。世間ではこれをおし旅行をいって物笑いの種にしているが、いやしくも外国見物に出かける位なら、ものの3,4ヶ月も費やして一通り会話の出来るまで英語を稽古しておかねばなるまい。
これと同じように鎌倉に行くものはまず鎌倉の地理・歴史をざっと調べて、いつ何処をどう見て帰るかという細かい順序を決めておかねばならぬ。こういわれて、一同は如何にももっとも至極なことと、あたかも風の音に驚いた兎のように耳を澄まし、姿勢を正してひとしく教師の顔に目を注いだ。やがて教師はおもむろに口を開いて、鎌倉と江の島の地理歴史のあらましについて、地図を描きながら物語って聞かせたのである。いつぞやの歴史の本や、地理の本で習ったときよりも話がずっと生き生きして面白いので、早く行って見たいものだと心が無闇に急(せ)いてならぬ。
「ああ、早く行って見たいな。もう2つ寝ると、明後日の晩は鎌倉だぞ。」
と、声高に言い放った。1人の生徒があまりの嬉しさと待ち遠しさを包みかねて。
さて教師の話のあらましは次の通りである。

******************

鎌倉は神奈川県鎌倉郡の東南の方にある町で、東京駅から汽車に乗ればざっと3時間ばかりで着ける。西の端は稲村ヶ崎で、東は近く三浦半島に及び、東も北も西も皆小高い松山で囲まれ、ただ南の方だけが遠く開けて広々とひた相模灘に臨んでいる。
相模灘の波がのたりのたりざあざあと絶えず打ち寄せて来るところはいはゆる由比ガ浜であって、その海岸の白い砂の上に形のよい青い松が幾本も幾本も生えていて、実に絵のような美しい風景である。ことに東に近三浦半島と城ヶ島のお青々とした姿を眺め、南に夢のような伊豆の大島が並みの上にばんやりと浮かんでいるのは、何ともいえぬ良い風景だ。
土地の広さは東西2里あまり、南北1里あまりあるが、町はこれを山之内二階堂・扇が谷・雪の下・小町・名越・材木座・長谷・坂下・極楽寺などにわけてある。その中でも賑やかなのは長谷と雪の下である。また人口はすべてで2万人近い。昔は非常に交通の不便なところであったが、今は東海道鉄道が大船から分かれ、この地を過ぎて横須賀に通じているし、電車は藤沢から片瀬・腰越・極楽寺・坂下・長谷などを通って、鶴岡八幡宮の前通りになる琵琶小路の所まで行っている。そこで東京方面はら鎌倉へ行くには、大船で汽車を乗り換えるか、あるいはもう一つ先の藤沢まで行って、そこから電車に乗っても良い。今度の旅行は30人近い大勢なので、途中で乗り換えるのは面倒でもあるし、どうせ一晩鎌倉に泊まってゆっくり見物するのであるから、まず汽車で真っ直ぐに藤沢まで行き、そこで電車に乗り代え窓の中から途中の景色を眺めつつ鎌倉に着く事にする。

今日の鎌倉はかく交通の便が開けているが、昔はまことに便利の悪いところであった。南の方、由比ヶ浜から船で乗り出すには今も昔も都合が良いけれども、東・北・西の3方は山また山であるから、昔はわずかに7口の切通しによって、あたりの村々と行き来していたのである。7口とは極楽寺坂切通・大佛切通・化粧坂切通・小袋坂切通・朝比奈切通・亀谷坂切通・名越切通のことで、この7つの道路は小高い丘陵を切り開いたものであるから坂になっている。今よりおよそ720年の昔、治承4年頼朝居地を鎌倉に定め、ついで始めてここに幕府を開いたのは、つまり守るに安くして攻めるに都合の悪い土地であったからだ。もし敵が東北・西の3方から山越しに押し寄せて来たら、7口の切通しさえ固く守っていれば、決して負ける心配が無い。また南の方は船で攻めて来るものなら、陸に上がる所をまっていて、「さあ来い。」と一人ずつ捕らえて皆殺しにしてやるまでのことである。世の中の開け進んだ今日から見れば、7口の険しい切通しくらいは何でもない。ずどんを大砲の一発も打てばすぐ破れてしまう。が、昔は弓矢で戦うにしても5町と遠く離れることが出来ず、敵を負かそうと思えば、ぜひ刀を振りかざして切り込んで行かねばならぬ。然るにこちらは切通しの中腹に待ち構えていて、敵が下から息を弾ませながら上ってくる所を弓に矢をつがえて満月の様に弓張り、ヒューを放って射殺したり、長い槍でのどもとを目がけてぐさりと突いて殺したりもしたのである。つまり昔の戦争を要害(ようがい)な所にいる方がいつも勝利を占めたものである。頼朝が三方とも山に囲まれた鎌倉に城を築いて天下に号令したのは、つまり万が一敵が攻めて来ても安心している事が出来たからである。


鎌倉はもと実に寂しい村であった。しかし源氏とは以前から深い関係のあった土地である。すなわち源頼義始めてこの地を平直方より譲り受けたもので、その後、石清水から八幡宮を移し、前9年の役に阿部貞任を撃つ時、ぜひ戦いに勝つようにと願いをかけたのである。それより頼朝に至るまで6代150年ばかり相伝えている。頼朝の父義朝もまたこの地に屋敷を持っていたので、頼朝から見れば、鎌倉は実に生まれ故郷のように懐かしい土地であったに違いない。これもまた頼朝が鎌倉に幕府を開いた一つの理由であるのだ。
頼朝が幕府を開いて壮大な屋敷を造るや、畠山・和田・千葉・梶原・大江等の家来も大きな住宅を造ったので、近国の商人は争ってここに集まり、一時は人口が数十万の多きに達し、その賑やかなこと実に非常なもので、殆どキリの先を立てるほどの隙間も無いくらいであったという。しかるに頼朝の死後幕府甚だ振るわず、親子喧嘩、兄弟喧嘩、仲間喧嘩などが絶え間なく続き、三代実朝の死後は全く源氏の勢いが無くなってしまった。ただしこの時、実朝の母政子の父北条時政が執権職に就いて幕府の政治を取り仕切る事になり、父子が代々その職を受け継いで来たが、九代の執権高時の時新田義貞に攻められて壮麗な殿堂も広大な邸宅も皆焼けてしまって、また昔の盛んな有様を見ることが出来なくなったのである。
北条氏滅びて天下の政治が再び天皇の手に戻り、世の中の人が後醍醐天皇の建武の新政を喜んだのはほんの夢の間、やがて足利尊氏はその弟直義とともに鎌倉に下って謀反し、後間もなく幕府を京都に開いたので、一時鎌倉は大いに衰えた。けれども、関東は源氏が偉業を創めた土地であるので、源氏の子孫たる尊氏は京都の室町に幕府を開くと同時にその次男基氏を鎌倉にやって関東を鎮めさせたのである。これすなわち関東管領である。基氏の子孫代々鎌倉に居り、常に京都の本家と勢いをあらそっていた。が、ことに基氏の孫持氏のごときは自ら公方(将軍のこと)ととなえ、その執事(管領を助けて政をとる役)を管領をよび、すべて幕府のやり方を真似したほどであったから、鎌倉もまた自然と盛んになってきたのである。すなわち頼朝が幕府を開いてから源氏三代、執権北条九代、管領足利五代に至るまで200余年の間は説きに盛衰あったとはいえ、相当に繁栄を極め戦国時代になってもなお幾らか勢いを有し、管領の屋敷はもとより幕府の遺跡もまたところどころに元の形を残していたのである。然るに室町幕府の末紀元2160年の頃に後の北条氏すなわち北条早雲が相模に起こりもくもくと頭をもたげて来て、その勢いが大いに振るうや、居城を足利郡の小田原に定めたので、鎌倉の繁栄は終に全くかの地に移ってしまった。これより後およそ400余年の間鎌倉は雨風にさらされ霜露にさらされたのである。しかし鎌倉は頼朝が幕府を開いてから実に700年の年月を経た都であって、土地は狭いけれどもあちらこちらに名勝名跡が沢山ある。一歩足を鎌倉の地に踏み入れると、何を見ても遠い昔の事が想い出されて実に懐かしい。数多い名跡や名勝の中でぜひ見物すべき主なものは、鶴岡八幡宮、頼朝の墓、鎌倉宮、頼朝の邸跡、滑川、浄明寺、公方屋敷跡、寶戒寺、妙本寺、由比ヶ浜、長谷観音、鎌倉権五郎社、長谷の大仏、影清土牢、浄智寺、円覚寺、建長寺、星月夜の井、極楽寺切通、稲村ヶ崎などである。

鎌倉についてはまず一通りの調べが付いたから、いつ出かけて行っても差し支えない。しかし江の島については、まだ殆どしっていない。今度の旅行では鎌倉見物が終わると、稲村ヶ崎から七里ヶ浜を磯づたいに腰越まで歩き、ここで満福寺を訪ね、それから江の島に行くことにしてある。稲村ヶ崎から腰越までは一理ほどあるが、打ち寄せてくる小波に足を洗わせ清い海の空気を吸いながら、白い砂の上を歩くのは誠に気持ちが良い。この街道の中に日蓮の袈裟掛けの松と行逢川という2つの旧跡がある。
さて江の島は片瀬の海岸をはなれること僅かに5町の所にある小さい島であってその周りが18町しかない。島はすべて岩からなり、4面みな崖になっていて、大波小波がざあざあ、だぶりだぶりと絶え間なく打ち寄せている。島の北端が遠浅になっていて、遠く片瀬の海岸に続いているから、引き潮の時は徒歩で渡ることが出来る。が、満ち潮の時の用意に桟橋をかけて、往来の便利をはかっている。ここで見物すべきものは江の島神社、岩窟、まな板岩などである。江の島の帰りには片瀬の龍の口の龍口寺に立ち寄って、日蓮上人の遺跡を弔うのだ。龍口寺の庭先でゆるり休んで足の疲れを癒し、片瀬から藤沢まで一里の道を電車に乗り、藤沢から汽車に乗って帰るのである。


これでいよいよ鎌倉・江の島見物の支度が何一つ不足なく出来上がったのである。
この話を終わると、教師は机のひきだしから鎌倉・江の島名所巡覧表という謄写版刷りのもの1枚づつわけてくれた。名所巡覧表は見物すべき所を道順に書い案内記であって、なかなか重宝なものだと思いながら開いて見ると、鎌倉権五郎社のところに
「祀前にて名物力餅を売れり。」
と書きそえてある。鎌倉権五郎といえば誰のことだろう。やはり鎌倉権五郎のことに違いないが、歴史で習った記憶が無い。けれども、今日いやしくも神として社に祀られているほどの人だから、何がな由緒がありそうなものだ。しかしその詮索はまず後回しとしていいが、ここへ行ったら忘れないで力餅を買って、むしゃむしゃと頬張ってやろう。教師も名物を食わせるつもりで、特に「力餅を売れり」と注意してくれたものらしい。何だ、鎌倉の名物は力餅ばかりかしら、もう2つ3つあってもよさそうなものだが、幾らさがして見ても、名物の名前が出ていない。これはむやみに金を使わせまいとの余計な考えから、教師がわざと書いてくれぬのだろう。なんぼ鎌倉の人々が商売が下手でも力餅ばかり売っていたのでは、とてもやりきれまい。この他に何か名物があるに違いない。これは行って見るとすぐ判ることだが、鎌倉の名物は何々と前もって判っていないと、跡でふところ勘定が違ってくるのだ。それが心配でたまらぬ。今度は江の島の名物が何だろうと、目を皿のようにして尋ねた甲斐があって、「桟橋を渡りて江の島に着く」という所の左側に
「両側には貝細工売店多し。またアワビ・サザエはこの地の名物にして、サザエの壷焼きははなはだ味よし。」
と書き加えてある。サザエは図書で書いたことがあるから、幸いにもその形だけはよく承知している。つまり金平糖のように体に多くの刺が生えていることだけは知っているが、へその緒切ってここにはや13年、まだサザエの壷焼きの味を知らぬ。これは話の種にぜひ食ってみなければならぬものと堅く決めておいても差し支えはない。鎌倉で力餅と、何かその他に珍しい、甘そうなものを食い、それから絵葉書やら土産やらを買っても、まだ金が余る。サザエの壷焼きを食う位の金は幾らもある。もし無ければガマグチを逆さまにして叩いたら、20銭銀貨の一枚ぐらいは飛び出さぬものでもないから先ず先ず安心だ。しかし江の島でガマグチが空になっては帰りに困るばかりか、片瀬藤沢の名物も味わっておかぬと後悔せねばならぬ訳だ。金に有るにまかせ使うものではない。少しずつ後も前も平に使わねばならぬ。始めおおびら切っても、後で人が頬張っている所をぼんやり指をくわえて見ているのはあまり図のよいものではないぞ。片瀬は何の名物か、見ると、
「名物片瀬饅頭あり。」
と書いてある。饅頭は俺の大好物だ。蒸したての饅頭なら10位は訳がない。片瀬で名物の饅頭を食うとして、藤沢には何がある。ここは名物の食い納めだ。どうか珍しいものがあってくれるとよいがと見れば、
「町に遊行寺あり、その東側に小栗堂あり。」
と書いてある。俺はいかに食道楽だとはいえ、遊行寺小栗堂はとても食べない。又アンコウであるまいし、それを食うような大きい口が開けない。ああ、あてが外れたというものだが、あまり名物を食いちらかしてお土産に腹下りを持って帰っては大変だ、笑われる、叱られる。笑われたり叱られたりしても、もともと俺が悪いのだから、ジッと我慢するとしても、今度他所に行く時にお母さんのヘソクリ金が貰えなくなる。
「興太郎、お前は買い食いばかりしてお腹を痛めて帰ってくるから、今度からはお銭をやらないよ。」
といわれるようになったら、それこそ大変だ。藤沢に名物がなくて、遊行寺・小栗堂のような名所のあるのは俺の身にとって非常な幸せというものだ。たとえ金があっても藤沢では、一切飲まず食わず、その代わり時間があったら遊行寺に遊行上人の跡を弔い、小栗堂で小栗判官愛馬のくつわと照手姫の鏡を見ることにしよう。

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鎌倉、江の島行きは往復2日のつもりである。何しろ生まれて始めての長旅であるから、いろいろ面白い失敗や有益な事もあるに違いない。俺はクラスの中で一番文章が上手だといつも褒められているせいか、今度の旅行の有様を残らず書けという重い役割を仰せ付けられた。水なき里の水車、回らぬ筆で、一つ鎌倉・江の島旅行記を書いて見よう。しかし一行は尋常六年だけであるが、何分にも30人に近い大勢のことであるから、一人一人のことを詳しくは書けない。つまり主として俺の目にうつり耳に響いただけのことしか書けないので、いわば「興太郎の見た鎌倉と江の島」がありありと描き出されるのだ。