江の島鎌倉古今俳句集


江の島鎌倉古今俳句集

昭和十一年五月五日印刷
昭和十一年五月十五日発行

著作者 発行者 飯田九一
横浜市神奈川区白楽十番地
印刷者 石川福次郎
印刷所 花東社
横浜市神奈川区反町四番地

発行所 横浜市神奈川区白楽十番地(飯田方)
神奈川県郷土文芸協育

古俳人の前書きには晝島或いは晝の島又は絵島或いは繪の島と書し、榎島、榎の島とも作るり。成るべく原本のままによれり。

江の島弁財天由来


ちらさじと江の島守やかざすらん亀の上なる山ざくら花。と堯恵法師の(北国紀行中)詠みし江の島は腰越より約十町の長沙を徒歩し或いは数町の桟橋を渡りて達す。一島興にして四周絶壁、緑樹之を藪ひ両側に旅館土産物店、軒を並べ、其の間を登り辺津宮、中津宮、奥津宮を排し、東浦より七里ヶ浜、葉山を眺望し、稚児が淵より西南の方を又遠望せば遥かに箱根、天城の緒山を蒼海の上に認め、小田原、大磯の長沙十里、屹然たる蓬莱の仙姿を見る。まことに奇景絵の如く也。

文政十三年庚寅の江の島弁財天諸堂再建帖によれば當島大弁天の由来は、抑、人皇九代開化帝六年乙丑四月、金輪際より一夜の中に一つの島を湧出す、其の後六百九十七年の星露を経て三十代、欽明帝六年乙丑四月上の己、天女大内に出現ましまし、天皇に告げて伝、我は東方江の島弁天なり。則、天に在っては大虚空の藏主、中に在っては、中有の藏主、地に在っては大地の藏主也よって天之日の魂、地之玉理にして、富貴財宝のみたまなり。今則、上の己の日に、我が弁財福穂を以って普く国土に施興せんとす又十月上の亥の日に至れば上天に帰りて上梵の緒天を恵み、養うなり。故に己来は毎年、上の己の日我を迎えて十月上の亥の日は必ず我を送れと、告げ終わりて神去り給えば天皇深く信心仰合ましまして、勅を東国に下し、宮社を島の南岸に造榮なし給う。
今の本宮岩屋なり。利己初亥の祭祀は是より始まれり。其の後五十二代将軍蘇我帝、光仁五年甲午二月、弘法大師四方海内行脚在て、人民化益の時、杖が東に引いて、この島に彩雲愛たいたるを見て、則金窟の洞中に厥伽跌座して修行祈念在りしに、七日に居たりて洞中光明、赫耀として、天女の威容、出現ましましければ、大師歓喜踊躍して、拝慮の尊容を彫刻し、又別に秘中の霊像を刻して、洞中両部の中央に安置し給う。則今の秘尊是也。夫より己来大師をして本宮中祖の開山と奉仰なり。藍、是等の来歴は、当山大縁起に委しく、世人の知る所なり。又年月おし移りて、鎌倉の武将家代々はいうに及ばず、小田原北条家に至ても篤く信仰なし、本宮緒堂社ことごとく修理再興有しなり其の後元禄年間宝暦中共雨度達。(以下略)以上が其の由来である。