江ノ島鎌倉名勝巡覧
明治十六年七月九日御届
同 七月 出版
編集兼出版人
東京府平民 法木徳兵衛
日本橋区元大坂町十一番地
発兌人 永野茂八
神奈川県下相模国江ノ島
全95ページ中江の島に関する19ページ分を掲載
名所古跡序詞
汽車の煙り世に立ちのぼらず人車の運び道にきしらぬ いにしえの大江戸と称えし頃には深窓の内に成長り旅の栞いざ知らぬ小女等が遊山のきはめと希望めるはまず江の島の浜辺をたどり岸の干潟に数々の貝拾う業七里ヶ浜の磯部と伝い薪樵る鎌倉山に名所古跡を訪ねるを快楽(たのしみ)の限りとせり船車の便利可也とも路芝の青きを踏海原の広きを眺め杖に佇みて言の葉の花を咲かしおもむろに歩みを進め緩やかに宿に着く程浩然と気を養うのすさみ有るべきやはさも江の島と鎌倉の両名所は相模の国の眼とも言いつべき展望無二の佳境にて事に江の島の絶景なる僅かに海中の孤島に属せど実に天然湧出の奇跡弁財天女降臨の霊地なるは遠き異国の果てにも伝え代々の詩歌にも之を讃し遠近の参詣人常に行き来しそのかみ鴨の長明もこの名所ろに詣で来て
江の島やさして汐路にあと垂る神の誓いの深きなるべし
また鎌倉の八ッ七郷十井十橋七の切通し五水の明泉今に枯れず夏草やつは者どもが夢の跡と せをの翁が行脚の吟に七百とせの昔も忍ばれ感情その場所に起こり哀れになつかしき旧跡の導きとて今回かの島に年久しく住める蛭子屋のあるじが発起してこの雑誌を綴り設け磯貝拾う小女男童が栞となすとなん聞こえし依てうのはじめと思い出ずる言種を漫に記す
明治十六年七月 東京市隠 假名垣魯文
江ノ島鎌倉名所古跡
鎌倉郡の起源
相模の国鎌倉郡の名は昔大職冠鎌足公いまだ鎌子丸と申せし時都に上りて官位を進められ天地天皇の御宇(みよ)に藤原姓を賜り内大臣に任ぜられる 公宿願の事ましまして常陸の国鹿島神社詣でたまいし時相模の国油井の郷に宿りたまいし夜夢に多年携え愛撫せらるる宝鎌(ほうけん)を大倉山松岡といえる所に埋と見て覚たまえるより鎌倉郡をは名づけたりと斯かる高貴因みにより関東無二の名所となれるなり 鎌足公の玄孫染谷太郎時忠が文武天皇の御宇より聖武天皇神鬼年中まで鎌倉に居住して東総追使の命をこうむり東夷を鎮む後に平の将軍定盛の孫上総介直方此処に住居す 伊予守源頼義相模守に任ぜられ下向して直方の女を娶り八幡太郎義家を生む 義家文武の道に秀で鎮守府将軍陸奥守に任ぜられ都より下向したまいし時直方鎌倉を義家へ譲る この後源氏代々この地を領す 義家のひ孫右大将頼朝公日本国総追捕使の命を奉じ幕府を開きその子三代実朝こうして北条九代之に続く 正慶二年後醍醐帝鎌倉の執権平高時を滅ぼし第八の宮を征夷将軍をしたまえり 然るに世は足利の威権に制せられ君民太平ならずして贈太政大臣尊氏の二男左馬頭基氏関東将軍の宣下をこうむり高官を持っておごりに乗じ朝命と軽んじ公方ととなえて代々尊大なりしかと基氏絶えて民耕せる田畑とこそは成にたり