鎌倉江の島案内


著者  石川天涯
発行者 松澤直作

大正3年9月1日(1914年) 発行
発兌元 相州鎌倉長谷 松澤書店
売捌所 東京日本橋 文林堂書店

全84ページ中、江の島に関連した部分15ページ分を掲載


江の島街道


日蓮袈裟掛けさかけの松極楽ごくらくまへ小川をがは極楽ごくらくがはである。れにふて三ちゃうばかりみなみへゆくとちいさきはしがある。れは針磨橋はりすりばしとて鎌倉かまくらけうの一つである。れをわたりて二ちゃうほどけば、民家みんか裏手うらてだかところに、つたまとったとしまつが一ぽんある。それが日蓮上人にちれんしょうにん袈裟掛けさかけまつである。上人しょうにんたつくちでいよいよ打首うちくびといふとき、されていた袈裟けさをばまつけてかれたといふが、まつときまつではあるまい。
此處ここよりすこしくけば、ひだりはう大館宗氏おおだてむねうぢ主従しゅじゅう十一人のはかきざめる石標いしがある。宗氏むねうぢ新田方にったがた勇将ゆうしゃうで、由比ゆいはまりの大将たいしゃうであったが、稲瀬いなせ川尻かわじりところ打死うちじにしたのである。

はま海岸かいがんにはうすゝむと稲村いなむらさきぐのひだりにある。音無川おとなしがははしわたって海邊うみべると、そのひろ海邊うみべが七はまである。西にし出鼻ではな腰越こしごえの八王子おうじやま小動こゆるぎいわといふので、稲村いなむらさきからそこまで七あるといふ(。六ちゃうを一として)正面しゃうめんみなみには伊豆いず大島おほしまえ、そのひだり遠方えんぽうにかすみてゆる陸地りくちは三うら半島はんとうはなで、みぎはるかの海上かいじゃうにほのゆるは伊豆いづ出鼻ではなである。ながむればしまべくちかえて、片瀬かたせからかよふべき桟橋さんばしさへ明瞭めいれうえるのである。富士ふじ高嶺たかねゆるなとは、如何いかにもよい風景ふうけいである。
濱邊はまべなかすすむと行逢川○○○小流こながれがある。此處ここ日蓮にちれん赦免しゃめん時頼ときより使者ししゃと、日蓮にちれん奇蹟きせき鎌倉かまくららせの使者ししゃとがつたところだといふ。川筋かわすぢきたへ三ちゃうほどけば、ひだりれて日蓮にちれん上人しゃうにん雨乞池○○○がある。また田邊ゝなべやつにあるので田邊たなべいけともいふ。



満幅まんぷく=七はまぐれば腰越○○市街まちである。右側みぎがは満幅まんぷくといふてらがある。れは行基ぎょうき菩薩ぼさつ開山かいさんで、弘法こうぼふ大師だいしつくったといふ不動ふどうや十一めん観世音くわんぜおんなどがある。
また源義経みなもとのよしつね兄頼朝あによりとも不審ふしんかうむりて、折角せつかく凱旋がいせんしたのに鎌倉かまくられられず、むなしく滞在たいざいしてゐたのもてらである。ときあにこゝろかんとて、大江おおえの廣元ひろもとたくして弁解べんかいじゃう差出さしだした、じゃう腰越こしこえじゃうをいつて名高なだかいものである。その下書したがきてら寶物はうもつとなってゐる。れがいたかわからんが弁慶べんけいいたとつたへてゐる。てらまえすヾりいけといふのがある、弁慶べんけい腰越こしごえじゃうをかくとき硯水すヾりみづにしたといふ。いけわき弁慶べんけい腰掛石こしかけいしといふのがある。
頼朝よりとも義経よしつねくび実験じっけんしたといふのもてらである。

龍口りゅうこう腰越こしごえ市街まち片瀬かたせ市街まちとはつヾいてゐる。片瀬かたせすゝむとみぎだかところに、日蓮にちれんしう巨刹きょさつ寂光じゃくゝわうざん龍口寺りゃうこうじがある。ところ文永ぶんえいねんぐあつ日蓮にちれん上人しゃうにん法難ほふなんにあつて、いまにも打首うちくびとならうといふとき、種々しゆじゆなる不思議ふしぎがあつて、くびることが出来できずに赦免しやめんになつた。所謂いはゆる龍の日○○○えある。上人しゃうにん遷化せんげのち弟子でしそうちからはせて建立こんりつしたのがてらである。建治けんぢ元年ぐあんねんげん使者ししゃにんくびねたのも此處こゝである。弘安こうあんねん再度さいど使者ししや杜世忠とせいちゅうくびねたのも此處こゝである。
日蓮上人にちれんしゃうにんまさくびねられんとせしときしたる敷皮石○○○といふはてら室内しつないにそのまゝある。てら西にし山麓さんろくには日蓮にちれん土牢どらうがある。てら毎年まいねんぐわつの十一、十二の両日りゃうじつ会式日えしきびにぎやかである。

片瀬川かたせがは腰越こしごえ片瀬かたせは、鎌倉かまくらおなじく避暑地ひしょちでありまた保養地ほやうちである。片瀬かたせ大昔おほむかし罪人ざいにん仕置場しおきばであつたといふことでたつくちすなはちそれであらう。西にしながれてゐるかは片瀬川○○○鎌倉かまくらかはのやうなちいさなものでない。川口かはぐち頼朝公よりともこう大庭おほば景親かげちかくびねさせたのである。
片瀬かたせ電車でんしゃ停留所ていりうしょから左折させつして砂洲すなはら桟橋さんばしわたればしまである。

江の島マニアック
本誌巻末掲載の江の島地図。現在の埋め立てられた東半分が無い。


しま

しま梗概あらまし片瀬かたせからしままでは十一ちゃうあまりある。むかしふねにてわたりしよしなるが、建保けんぽうねん正月しゃうぐわつ干汐ひきしほときはじめてりくつゞき干潟ひがたとなり、それ以来いらい干汐ひきしほのときは徒歩かちあるきしてかれるやうになつたといふ。いま沙洲すなばら蜿々えんえん長蛇ちゃうだごと桟橋さんばしとがあつて満潮みちしおときでもふねなくてかれるし、干汐ひきしほのときは徒歩かちでもかれるのである。きはめてふるころは、しまと八王子山おうじやま小動岩こゆるぎいわとはつゞいてたもので。それが波濤なみあらはれて今日こんにちごとれたのであると学者がくしゃはいふのである。
しまはじめはひとむべきやうなく無人島むにんたうであつたが、文武天皇もんぶてんのうねん役小角えんのせうかくといふ行者ぎゃうじゃはじめてしまわたつたということである。その頼朝公よりともこうおほせ文覺もんがく上人しゃうにん弁財天べんざいてんしま西にし岩窟いはや勸請くわんじゃうした。しま周囲めぐりが二十ちゃうで、面積めんせきは十八町歩ちゃうほたかさは二百四十しやく名物めいぶつ貝細工かひざいくである。
片瀬かたせ茶屋ちやゝからしま茶屋ちやゝでは、しきりに草履ざうりせとすゝめるが、花柳くわりう社会しやくわい老婆としよりらず、普通ふつう人屋ひと草履ざうりならぬとも一かう差支さしつかへはない。畢竟つまりかへりの休憩きうけいをあてこむのである。

弁天社べんてんしゃ日本にほんの三弁天べんてんの一つで、むかし江島神社○○○○といつたがじつ金亀山きんきさん興願寺こうぐわんじといふてらである。
むかし北条時政ほうでうときまさ此處こゝ参籠さんろうして子孫しそん繁栄はんえいいのつた。すると或夜あるようつくしいをんなあらはれてふには、御身おんみのちには国権こくけんるべきものがあろうが、みちにはづれたことをすると七だいほろびるといはれた。時政ときまさおどろいてると、ながさ二十じゃうばかりもあらうといふ大蛇だいじゃうみはいつてつた。のあとにうろこが三まいのこつてゐたので、それをいへもんを三つうろこにしたといふはなしがある。やしろは、ほんじゃうの三しゃわかれてゐる。しまくちからみぎほう石段いしだんあがつてゆくと下宮○○である。此處こゝには八弁財天べんざいてん弘法大師作こうぼうだいし)、三天大国てんだいこく傳教大師作でんけうだいしんさく)等がある。又山またやま中服ちうふく慈覚大師じかくだいし創立そうりつといふ弁天社べんてんしゃがあつて、れが上の宮○○○である。それより又登またのぼると本の宮○○○で、島口しまぐちから十四ちゃうばかりある。此處こゝ天女てんにょはじめて垂跡すゐじゃく神窟しんくつであるから本の宮○○○といふのだといふ。いづれが本家ほんけでもよいしまあるくにはどれへも参詣さんけいするがよいのである。



ちごふちもとみや金亀楼きんきろうまえでゝみなみすゝめば、しま南面なんめんたかところす。そのみち何處どこまでも西にしむかってゆくとくだつてまたのぼる。それよりすゝみてくだれば、みぎに二三の碑石いし佐羽さは淡斎たんさいおよび芭蕉ばせうなどの)がつてる。此處こゝしま西端せいたん絶壁ぜつぺきである。うへれば龍燈りゅうとうまつで、したれば碧海渦へきかいうづき、怒涛どたうきしあらつて真玉またま白玉しらたま粉砕ふんさいしてる。るからに物恐ものおそろしい。れがすなはちごふちである。
むかし鎌倉かまくら建長寺けんちゃうじ自休じきう臓主ざうしゅといふわかそうがあつた。弁天べんてんへ百にち日参につさんをしてゐたが、ある白菊しらぎくうつくしい兒女ちごあはした。白休じきう愛慕あいぼじゃうへず屡々しばしば白菊しらぎくゆどんだけれどもおうじなかつた。白休じきう悶々もんもんじゃうにせまり、白菊しらぎくはそをるにしのびずして、つひに二しゅうた渡守わたしもりたくしてふちげたのである。あとからまた白休じきううたて、自分じぶんも一しゅうたのこし、白菊しらぎくあとふておなじくふちとうじてんだのである。(自休は奥州おうしう信夫しのぶさん

兒が歌
  白菊しらぎくしのぶのさとひとはゞおも入江いりえしまこたへよ。
  うきことをおも入江いりえしまかげにすついのちなみ下草したくさ

自休が歌
  白菊しらぎくはななさけふかうみとも入江いりえしまぞうれしき。

いわふちみぎにして、岩角いはかどつたふてしまふもとみなみにゆけば、やがて波打際なみうちぎはせる桟橋さんばしがある。はしすゝみゆけば岩窟いはや入口いりくちいたるのである。れより案内あんないしょくつて窟中くつちゅうすゝむと、二十けんばかりにてあなは二つにわかれるが、いづれもさらに二十けんばかり奥行おくゆきである。みぎあな金剛界こんがうかいひだりあないた胎臓界たいざうかいである。金剛界こんがうかいすゝみておくいたり、かへりは中途ちうと両界りゃうかいつうずるあなくゞって胎臓界たいざうかいおくいたりてかへるのである。穴中けつちうには弘法こうぼふ加治かぢすゐ日蓮にちれん趺坐ふざいし弘法寝石こうぼふのねいしなどがある。ところどころにしょくはあれど陰々いんいんたる暗穴あんけつのことなれば、よは婦女子をんなこども色青いろあをくもなるであらうが、案内者あんないしゃ平気へいきなるを安心あんしんなさるがよい。
れにてしま見物けんぶつをはりたれば、ふたたもとみちもどりて片瀬かたせわたり、電車でんしゃにて藤澤ふじさはまた鎌倉かまくらくのである。

藤澤ふじさわ片瀬かたせからきたへ一ばかりすれば藤澤ふじさはまちである。電車でんしゃならばほんの一いきくことが出来できる。藤澤ふじさはにて汽車きしゃ時間じかん余裕よいうがあらば、遊行寺いうぎゃうじ見物けんぶつするがよい。
遊行寺○○○時宗じしう総本山そうほんざんで、藤澤ふじさは道場だうぢゃうとも、無量光院むりゃうくわうゐんとも清浄光寺せいじゃうくわうじともいふ。本尊ほんぞん慈学大師作じがくだいしさく弥陀みだで、「清浄光寺」の扁額がく後光厳帝ごくわんごんてい宸筆しんぴつである。古器古文書こきこもんしょおほく、後醍醐天皇ごだいごてんおう御像おんざう、一ぺん上人しゃうにん絵詩傳えしでんとう国宝こくほうがある。