この碑石は土御門帝の御宇に慈悲上人宗の国に至り 慶仁禅師に見えこの碑を相伝して帰朝せりとぞ篆額は小篆文にて粗大篆を兼ねたり
碑文は摩滅して字体不分明なり 普く博識好事家に就いて質せども嘗て知人あらざるを遺憾とす
鴨長明の歌
江の島やさしてこし路ふ跡たるゝ 神はちかいの深さなるべし
法印げつ慧の歌
ちらさじと江の島もりやかざすらん かめのうへなる山さくらかな
蘭渓和尚同遊江島帰賦以呈 宗大休 佛源禅師
江島追遊列俊髪馬蹄猟々擁春袍穿雲分座烹茗香
策杖徐行踏巨鼇洞口千尋石壁聳龍門三級浪花高
須知海角天涯外萍水逆懽能幾遭
片瀬村
固とも記せり江の島の北に当り砂路八町片瀬川島の西に流る鎌倉郡と高座郡の堺に流れると片瀬川と言う、駿河次郎清重が戦死せし所にして大庭三郎景親(かげちか)を梟首(きょうしゅ)したるもこの川の畔なり。新田義貞鎌倉攻めの時。片瀬。腰越。十間坂。五十余箇所に火を賭けると古書に見えたり
龍行寺
片瀬腰越の間江の島より北十五町余りにあり文永7八年九月十二日。日蓮上人難に遭舊蹟にて敷革石一名を首の座石といい寂光山と号す日蓮上人選化の後弟子六人の老僧力を合わせて建立す(日蓮土牢本堂の西山麓に有る窟をいう)
龍口明神社
龍行寺の西の方にあり舊祠にして津村の鎮守なり祭神は江の島大草紙に委し