江ノ島鎌倉名勝巡覧


明治十六年七月九日御届
同 七月 出版

編集兼出版人
東京府平民 法木徳兵衛
日本橋区元大坂町十一番地
発兌人 永野茂八
神奈川県下相模国江ノ島

全95ページ中江の島に関する19ページ分を掲載



江ノ島


相模の国江ノ島に鎮座まします江ノ島神社(辺津宮 中津宮 奥津宮 舊下ノ宮 舊上ノ宮 舊巌本宮)の祭神(多紀津姫命 市杵島姫命 多紀理姫命)三神の由緒を審に尋ねるに昔欽明天皇十三年壬申四月十二日より二十二日まで此津村の湊の海上にわかに霧立ち雲覆い沖合い振動し次第に海上穏やかになり時に不思議や一つの島沸き出でたし 天女三神ここに天降りましたまえり是れ即ち現時江の島大神と申し昔は弁財天女と呼び奉る御神なり
この時に当りこの島の北の方に黒澤という四十里の湖水を隔て南の山谷に津村の湊と呼ぶ淵あり この淵に五頭の悪龍住み居りて人の子を取り食らいしその近辺の長者十六人の子を持てるが皆この悪龍のために飲まれにければ長者は痛く之を恐れ西の里に移りしゆえこの所を名づけて子死越という 今腰越村に作る後悪龍天女の美麗き姿を見初恋慕の情止みがたくかかる猛悪なる毒龍も抑えがたき色欲煩悩の犬に追われて天女の許しいを至り思いの丈を述べければ天女は甚だ心好からず思し召し今より邪悪の念を絶ち人の子供を取り食う事を止めたれてその時誓いを為すべしと思せ賜え 流石の悪龍も後悔して遂に心を改め善龍とこそ化したりどぞ今に津村の鎮守なる龍口明神は即ち之なり かかる舊縁あるを以って六十一年毎に江の島に渡御(とぎょ)ありて六十日の大祭あり 又江の島大神は亥と巳の年に当る七年毎に大祭を執行す 之を昔は開帳ととなえしを王政維新のその後は神と仏の差別を立て今の称えに改めたり



抑々当時江島の開基は人皇第四十二代文武天皇の頃大和国に役行者(えんのぎょうじゃ)という人あり 神霊不思議の事あればその弟子韓国広足此れを妬み小角(おづの)という不思議の妖術を」使う由を朝廷に誣告したるより同天皇の三年に伊豆国大島へ流され翌年四月小角は不図北海を見てあれは紫雲起こるところあり 行者は不測の思いをなしその所を尋ねると江の島金窟の上において尋ね当てし故行者はやがてかの窟中に止まりて七日の間精進をしその冥感を祈りして満願百七日の真夜中頃天女突然窟中に示現在々けりとなん

一 人皇四十四代元世天皇の養老七年三月泰澄大師江の島へ参詣し大乗経を読誦しければ天女現前然と現れ給いしと言い伝えたり

一 人皇四十五代聖武天皇の神き五年より天平六年まで道智法師この島に在まし法華経を読誦しけると数部の妙典聴聞の為か天女毎日三の飲を手づから供養せられしという

一 人皇五十三代嵯峨天皇弘仁五年二月弘法大師北京之帝城より東海の霊場を拝しながら相州津村の湊に泊どり南海の幽畔によって一孤島の勝景奇絶たるを見渡海して江の島に至り金窟に入りて十七日趺座して真言陀羅尼を読満する夜窟中厳淨として梵楽聞こえ天女突然と現じ八臂具足の格好を見せ大師に一偈を示したりと



一 文徳帝の御寿三月三日慈覚大師この津村に着し南海の霊島を望むに島中三領あり ここに大師恭敬合掌し読経修行すること三十七日洋中に彩雲愛たいとして霊験あり 大師いよいよ信心したまうとぞ

一 村上帝の御宇健保四年正月十五日江の島明神の宣託あり 大海潮干きて道路を顕出せりよりて鎌倉中緇素の輩ら群集せり 公命を受三浦左衛門尉義村を御使いとしてこの霊地に詣でしめしと 是より参詣人は船路の煩い無くなりて前代未曾有の神変を尊とみけり

一 北条時政かつて江の島神社に篭り武運長久を祈誓せし三十七日の夜に当たり緋の袴を穿き柳裏の衣着たる美麗なる女房忽然と出で来り時政が所願の旨を告げ給いさしも艶やかなりし女房たちまち長二丈ばかりの大龍となって海中に入りたり この跡を見に大いなる鱗三枚を残せり 時政願望就せりとて喜びてその鱗の形を取り旗の紋に用いたり 是より北条は三鱗形を定紋をはなえたりとぞ



一 辺津社 舊下ノ宮
建永元年慈悲上人諱真の開基にて源実朝の建立なり 延宝三年に再興の棟札ありと言う

一 中津宮 舊上ノ宮 
文徳天皇御代仁寿三年慈覚大師この宮を創造せりと言う

一 奥津宮 舊巌本宮の御殿
養和二年四月五日武衛頼朝腰越に出て江の島に赴き給う その頃高尾の文学上人武衛の御祈願により龍穴の大神を勧請す 今の巌屋本社是なり 今奥津宮の華表に掛ける一遍額金亀山を書するは文学上人の筆なりと

一 龍窟
この龍穴に於いて祈雨の事徃々見えたり 法印堯慧が北国紀行に此処を蓬莱洞といえるは佛法深秘のことなり

一 碑石
辺津の社南方に立てり 高サ五尺余 広サ二尺余
鐘楼の傍らにあり 上と雨縁は別石にして座石なし 年古て今は土中を掘り埋めて建てたり 碑文の所半ばより折れしを繋ぎ合わせてあり この石は江の島の屏風石なりとも言伝う


この碑石は土御門帝の御宇に慈悲上人宗の国に至り 慶仁禅師に見えこの碑を相伝して帰朝せりとぞ篆額は小篆文にて粗大篆を兼ねたり
碑文は摩滅して字体不分明なり 普く博識好事家に就いて質せども嘗て知人あらざるを遺憾とす

鴨長明の歌
江の島やさしてこし路ふ跡たるゝ 神はちかいの深さなるべし

法印げつ慧の歌
ちらさじと江の島もりやかざすらん かめのうへなる山さくらかな

蘭渓和尚同遊江島帰賦以呈  宗大休 佛源禅師
江島追遊列俊髪馬蹄猟々擁春袍穿雲分座烹茗香
策杖徐行踏巨鼇洞口千尋石壁聳龍門三級浪花高
須知海角天涯外萍水逆懽能幾遭


片瀬村

固とも記せり江の島の北に当り砂路八町片瀬川島の西に流る
鎌倉郡と高座郡の堺に流れると片瀬川と言う、駿河次郎清重が戦死せし所にして大庭三郎景親(かげちか)を梟首(きょうしゅ)したるもこの川の畔なり。新田義貞鎌倉攻めの時。片瀬。腰越。十間坂。五十余箇所に火を賭けると古書に見えたり

龍行寺

片瀬腰越の間江の島より北十五町余りにあり
文永7八年九月十二日。日蓮上人難に遭舊蹟にて敷革石一名を首の座石といい寂光山と号す日蓮上人選化の後弟子六人の老僧力を合わせて建立す(日蓮土牢本堂の西山麓に有る窟をいう)

龍口明神社

龍行寺の西の方にあり
舊祠にして津村の鎮守なり祭神は江の島大草紙に委し

西行見返松

片瀬村の中央藤沢駅通路の傍らにあり西行此処に来り都の方を顧みて松枝を西の方へ捩れたるをもって捩れ松ともいう