鎌倉と江の島奥附


著者  日本名勝研究会
発行者 副田 勉

昭和2年4月20日(1927年) 発行
発行所 日本名勝研究会

全87ページ中、江の島に関連した部分4ページ分を掲載


江の島

片瀬の前方海中に点在せる一孤島である。昔は舟で渡つてゐたのであるが、建保四年正月の干汐の時に始めて陸に続いて干潟となり、その時以来干汐の時は徒歩にて渉れるやうになつたといはれてゐる。島には片瀬から一條の粗末な桟橋を通してゐる。島は周囲二十町、面積十八町歩、全島皆岩石で、断崖絶壁を廻らした丘上には青樹蒼欝、見渡せば西には箱根から天城に連なれる山々屏風の如く、西北には富士の秀峰群山を壓して碧空に聳え、東の方は逗子葉山から三崎へかけての長汀曲浦岬角繪の如く、南は浩澎萬波の彼方に伊豆大島三原山の噴烟をも望み得べく、東海無双の勝景である。桟橋を渡り華表を過ぐれば、旅館料理店其他名物細工や榮螺(サザエ)の壺焼を鬻(ひさ)ぐ店が、道の両側坂路に沿うて層々と糶(せ)り上がり一種の奇観を呈してゐる。此の島は大古は八王子山小動岩と続いてゐたものであるが、それが波濤に浚はれて今日の如く切れたものであると学者は言ふのである。以前は無人島であったが、文武天皇の四年に役小角が始めて此島に渡つたと言われてゐる。その後文覚上人が、源頼朝の命によりて此島の西の岩窟に辨財天を勸請したと傳へられてゐる。近江の竹生島と安芸の厳島と此島を合せて日本三辨天と崇められて有名である。また島の上に三つの祠がある。島津の宮、中津の宮、奥津の宮と號し、多紀津姫命、市杵島姫命、多紀理姫命の三女神を祭り、此の三つを総称して江之島神社と呼ばれてゐるが、実は金亀山興願寺といふのである。島津の宮の背後に一基の古碑がある。宋良真が宋から其石を持つて来たものであつて、高さ五尺、幅二尺七寸ばかり、碑面は摩滅して僅かに篆額の大日本江島霊跡建寺之記の数文字を読み得るばかりである。又奥津の宮を西に下り崖に沿ふて左折すれば龍穴の前に出られる。洞穴の口は南に面して開き、濶さ方一丈余、入口に桟道を架し、洞内に入る人の為に蝋燭など売ってゐる。是れ古への窟辨天であつて、窟中に入ること約四十間にして道は左右に岐れ、一を胎臓界と呼び、他を金剛界と呼ぶ。奥に両部の大日如来を安置し、これから奥は洞窟愈々狭くなって匍匐(ほふく)して這入るのであるが、遂に奥を極めることが出来ない。洞窟の南端兒ヶ淵は、昔鎌倉建長寺の僧、奥州信夫の人自休といふもの、江の島岩本院の稚児白菊に懸想(けそう)し、再三之を挑んだので、白菊窮した揚句
   白菊をしのぶの里の人とはゞ思ひ入江の島とこたへよ
   うきことを思い入江の島かけに捨る命は波の下草
二首の歌を残して此淵に投じて死んだ、自休悲歎(ひたん)に堪えす。
   白菊の花の情の深き海に共に入江の島ぞうれしき
の一首を止めて亦相尋いで投身したので爾来此の淵を兒ヶ淵と名づけたのであると

   波すゞし江の島うかぶ青畳     此有
   江の島へ女の旅や春の海     子規