浦賀港西岸


浦賀港の湾口方面を眺めてみると湾の口は細くすぼまって湾はウナギの寝床のように深く長い事がわかる。

浅瀬が長く続きこんなところに船が乗ったら大変。真正面に朝日がまぶしい。


交番前の交差点で道は右に曲がるが、左の浦賀港西岸沿いの道を行く。


するとすぐに浦賀の渡しの西岸側の渡し場があった。大人150円、小中学生50円。乗りやすい値段だ。でも中学3年生と高校1年生では運賃が3倍か。

浦賀港と渡船


昭和52年市制施行70周年記念
横須賀風物百選 浦賀港を渡船
室町時代に、聖護院准后道興(せいごいんじゅんこうどうこう)が著した紀行文・廻国雑記(1486年)に「---浦川の湊といへる所に到る。こヽは昔源朝郷の鎌倉にすませ給う時、金沢、榎戸、浦賀とえ、3つの湊なりけるとかや---」とあります。そこが現在の浦賀港をさすものであるかどうかについては、歴史家の間に疑問があるようです。しかし、「浦賀みなと」の名称そのものが、書物の中にみられる最初ものです。いずれにしても、浦賀港が三浦一族や後北条氏しよって使われていたことは確かなようです。
この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。英人ウィリアム・アダムスを逸見に住まわせ、しきりにイギリスやオランダなどの商船をこの港に引き入れるよう努めさせました。
享保5年(1720)、浦賀奉行が置かれると、江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀で船改めをすることが義務付けられました。そのために、浦賀の町は大いに栄えました。以後、浦賀港は、黒船の来航、咸臨丸の出航、日本最初の様式船鳳凰丸の建造の地として、更には浦賀船渠株式会社の設立を、ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。
この港は、湾が1.5メートルも入り込み、東西両岸の住民が往来するのには、渡船を利用する事が便利でした。したがって、渡船は早くから開かれていたようです。明治9年編さんの皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス・・・船二隻ヲ用ヘテ往復ニ便ナラシム私渡ニシテ修繕民費」とあるところから、最初は民営の渡船であったようです。大正6年には、その重要性を評価されて、浦賀町営となりました。更に昭和18年4月1日、浦賀町が本市に合併されると、渡船事業も市営になりました。昭和24年以降、渡船の渡航業務を民間に委託し、現在に至っています。
また、平成10年に就航120周年を記念して新船{愛宕丸」を建造しこれとあわせ、全国でも珍しい水上の市道の愛称を募集し「浦賀海道」に決定しました。
唯一の市営交通事業である渡船で、昔をしのびながら、浦賀港横断をお楽しみください。
浦賀の渡し横の解説板より
横須賀には風物百選で本当に100箇所にこのような解説板を設置しているらしい。全部廻ってみるのも楽しいかもしれない。


東岸もそうだったが船着場も江戸時代風に造ってある。誰が何と言おうがヨーロッパでは戦争が絶え間なく続いていた時代に、300年間平和な国があったのだ。価値観が違うのも無理からぬところ。


西岸沿いに道を走っていると船番所跡という広い公園のような場所に出る。東屋もあってしばらく海を眺めているのも楽しそうだ。

ここにはかつて船番屋があったそうで立て札が立っていた。

船番所跡


浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われました。
与力、同心の監督のもと、「三方問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が、昼夜を通して実務を担当しました。「入り鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても、重要なものでした。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀深訪くらぶ

案内図


この海岸線は浦賀の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。L字形の桟橋は、通称・陸軍桟橋を呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。
また、この場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗船員と荷物の検査が行われた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定をはかるために行われ、港町・浦賀の反映にもつながった。
*この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。
浦賀港西岸緑地の解説板より
緑地と言われても殆んど緑はないのだが、

これが南方からの引揚者が上陸したと言う陸軍桟橋。あまりに小さい桟橋なので引揚船の大きさが心配になった。歴史的な遺産の上でおじさんが釣り糸を垂れていた。


かつての軍港浦賀港にも今はシティ・マリーナ・ヴェラシスのようなマリーナが出来ている。時代が変わって浦賀港もリゾート色の強い港に変わりつつある。


マリーナを過ぎるとすぐに川間隧道がある。川間隧道を抜けると横須賀刑務所、久里浜少年院といった一般人には縁の無い施設がある


南北が逆になっている地図なので注意。