浦賀の渡しと浦賀ドック



浦賀港は大きく切れ込んだ地形をしているため東西を行き来するために渡しが必要だった。浦賀の渡しは現在も運行していて見ている間にも何度もお客さんが乗って渡って行った。

渡船場


渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」 には、渡船を修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、操業が確認されています。
当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。
平成10年8月に就航した現在の 「愛宕丸」 は御座船風のデザインとなっています。
この航路は 「浦賀海道」 と名付けられ、横須賀市道2073号となっており、東西浦賀を結ぶ渡船は、シンボルの一つです。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀深訪くらぶ
1733年には渡し船が確認されているそうなので歴史は非常に古い。詳しい歴史は上の通り。昼間はお客さんが少ないのだろう。船が対岸の時にはベルを鳴らして呼ぶようになっている。お昼休みもちゃんと一時間あっていつ休むのだろうといった心配は要らないようだった。


浦賀の渡し船。朱色に塗られた御座船風の渡し船がやってきた。


お客さんを乗せて出航していくようす。


立て札にあるかつての渡し舟の写真。昭和30年頃との事だが船頭さんが艪を漕いでいる。船頭さんが2人乗って操船している。


大ヶ谷のバス停のすぐ先に「浦賀ドック」の立て札が浦賀ドックのフェンスに張ってある。

浦賀ドック(通称)


浦賀では、嘉永6年(1853)に幕府により近代的な造船所が開設されました。翌年、日本最初の様式軍艦である鳳凰丸を建造し、咸臨丸(かんりんまる)などを修理しました。
明治24年(1891)中島三郎助の23回忌にあたり、函館戦争のときの同士であった荒井郁之助(函館での海軍奉行) が中島三郎助のために浦賀に造船所をつくることを提唱し、榎本武揚は即座に賛成して、地元の有力者に働きかけ、明治30年(1897)浦賀船渠(株)が設立されました。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀深訪くらぶ


浦賀港の東岸はコンクリート塀がずっと続いていて海を見る事ができない。見せたくないものがあるのかもしれないが、走る方からすればあまりに景色が悪い。


そのうちに京浜急行浦賀駅のところで浦賀港西岸に行くため斜めに折り返す。


浦賀駅前にあった地図。浦賀港は深く切れ込んでいる。


京浜急行浦賀駅前で西岸に折り返してすぐに浦賀造船所の入口があった。入口の前に解説板が立っている。浦賀造船所の風景は横須賀風物百選なのだそうだ。

浦賀造船所


昭和52年市制施行70周年記念
横須賀風物百選 浦賀造船所
浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械株式会社追浜造船所浦賀工場です。
創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名を変わりましたが、広く「浦賀ドック」 の愛称で呼ばれてきました。
この造船所は、明治29年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌30年6月31日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は百万円でした。
そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。その造船所もそのなかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約150円で雇いドックを築きました。
明治35年10月15日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を浸水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも国内の企業から受注した工業用運搬船のたぐいばかりでしたが、14隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送りだしました。
この造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約1000隻にのぼります。現在のなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もなお地元市民に基盤を置いています。
浦賀造船所前の解説板より


低い塀の上から覗いてみるとドッグが見えた。不況なのだろうか、ドックはがらんとしていた。


浦賀駅前の案内地図を拡大。南北が逆になっています。