護岸は途中から船揚場になっていて漁船が引き上げられていた。この先で道は右に曲がるのだが左の道を入れば堤防の先端に行けるのでそちらに回って見る事にする。
堤防の先端に行くには旅館の左手の小さな道に入る。
白秋文学コース ⑪渡船場
おまへ、渡海舟か
帆に帆を下げて
知らぬふりかよ
目の前を
昭和35年、城ヶ島大橋が開通するまで、城ヶ島への往来はこの渡船場からの渡し舟に頼っていました、白秋がこの渡海舟を詠んだ 「おまへ網舟」 の中の一節です。
手漕ぎの渡し舟の画く櫓渦の中には歌があった。「城ヶ島へはやはり渡し舟で渡りたい」 と往時を懐かしむ人も多い。
おまへ三盛丸
霊岸島がよひ
いつも夜出て
昼帰る
当時の三崎と東京を結び、三崎の人々の交通機関であった三盛丸を詠んだ一首もあります。
三崎市 解説板より
護岸の先端に出てみると沢山の人達が城ヶ島に向かって釣りを楽しんでいた。中央の船道まで餌が届けば釣果はあるようだが少し遠そうだ。
陸地側の建物の窓の下に岸壁の解説が張ってあった。三崎と言えばマグロと言われるような場所なのだが、解説によると、この岸壁から遠洋マグロ漁船が出港していったのだという。
花暮岸壁
この埠頭は、出漁岸壁に指定されていて、全国のマグロ漁船が世界の海に船出してゆきます。 いつまでも尾をひく別れのテープ 胸をさす出船の汽笛、港町の哀歓を見ることができます。
かつて、このあたりは一面の岩礁が小さな入江をつくっていたところで磯崎と言われていました。享保年間(1720年代)後背地の丘を崩した埋立てや昭和2年に始まった県の漁港埋立を経て今日に至ったものです。
花暮の地名のおこりは「昔、城ヶ島ノ花ニ貴賎ココニ集リ眺望、観賞シテ日ヲ暮ス・・・」と言われています。
花暮は古くから三崎漁村集落の中央部にあたり、明治以降の急激な三崎の水産物の流通海運の進展に需要な役割をはたしてきた地でもあります。
三崎氏 解説板より
港の上空には沢山の鳥たちが飛びかっていた。遠くて判別が出来ないのだが港なのでウミネコとセグロカモメが混在しているのではと思われる。
三浦港産直センター「うらり」。買い物袋を提げた人達が沢山出てきた。繁盛は何より。
うらりを過ぎるとすぐに西浜のバス停がある。浜の名はかつての名残だろう。今あるのは駐車場の先に小さな船揚場があるばかり。