白秋文学コース ⑦歌舞島
いつしかに春の名残となりにけり
昆布干潟のたんぽぽの花
白秋三崎初遊(明治43年暮春)の一首で、白秋歌碑建設の構想が企画されたとき白秋自身が最初に希望したのはこの歌だった。
しかし三崎の海には昆布は生育しない、搗布(かじめ)を誤認したということで建碑は実現しなかったが、三崎における最初の会心の作として大事にした歌でした。
白秋が人生の岐路に立ち、自らの清秋にも名残を留めようとする、郷愁と愛着がこの歌に秘められているからです。
大正2年、三崎に新居を求めた白秋は、10ヶ月余り三崎の風土を歩きつづけ、
相模のや 三浦三崎は ありがたく
一年余り吾が居しところ
と、心霊を甦らせ新生のよろこびを残して小笠原へと渡ったのでした。
三浦市 解説板より
三浦一族の歴史コース 歌舞島
鎌倉時代、すでに三崎は、鎌倉幕府の行楽の地として、源頼朝公をはじめとして多くの幕官が来遊していました。ここ歌舞島の頼朝公が歌舞宴楽を催したところからこの名が残されています。また一説には、三浦儀村の招きで当地を訪れた将軍藤原頼経が来迎(極楽から仏を迎える) の儀を行い、読経歌舞を催したところからその名が伝えられたともいわれています。
この歌舞島を土地の人は訛って「かくじま」 と呼んでいますが、別名兜島ともいい、往時は兜に似た離れ島でありました。
それが地殻の隆起によって現在のように海岸に突出した陸つづきの小丘になったのです。
このあたり一帯の磯は、岩礁の変化と男性的な海岸美で知られ、荒天どき千様万能の礒岩に挑んで白く砕ける黒潮の雄大さは、水煙千丈とでの形容すべきでありましたが、現在は埋め立てられており、その情景を見ることはできません。
また、頂上から眺める霊峰富士や相模湾の夕映えは天下の絶景です。
三浦市 解説板より
入口が閉じられて今のところ使用されていない、その名も歌舞島公衆便所。
かつては島だったと言われても、現在ではコンクリートの上に岩が出ているだけの歌舞島。おまけに何故か歌舞島の岩面には高利貸しの勧誘ポスターがペタペタと貼られる荒れようである。
埋立地の横にぎりぎり埋立てを免れた二町谷港がある。小さな漁港だが周囲に岩場の多い風光明媚な漁港である。
満潮時で岩場が顔を出していないが、二町谷の蓮痕と呼ばれるうねり狂ったような複雑な地形の二町谷港と海外(かいと)港の間の磯場。
海外(かいと)港も小さな漁港。岩場は二町谷港周辺ほど多くはないので、船道に気を使う事は少なそう。特定第3種三崎港の海外地区というのが正式名称らしい。