歌舞島から海外(かいと)


三崎港を岸壁沿いに西に進んでいると埋立地に突き当たる。

埋め立てられたばかりでまだ地盤が安定していないのか、原っぱのままで放置されていた。ここは城ヶ島の影からはみ出てしまうため、波よけのため西に長い堤防が突き出して造られている。

歌舞島(かぶじま)公園周辺のみどころ


①油壺と湾(三浦一族の歴史を極める油壺とうヨットハーバー)
②浜諸磯(磯と夕日が美しいところです。)
③諸磯の隆起海岸(国指定の天然記念物で、水田の上野岩肌に、波打ち際にすむ貝の生息跡が数段の層になって見られます。)
④海外のスランプ構造(県指定の天然記念物で、槢曲を思わせるように地層がうねっています。)
⑤二町谷の蓮痕(県指定の天然記念物で、地層が堆積した時の波の跡が、地層に記録されたものといわれています。
⑥見桃寺(三浦七福神の一つ桃林布袋尊が祭られています。三崎三御所の内の一つ「桃の御所」です。)
⑦三崎水産物地方卸売市場(年間を通じて新鮮な魚の大量な水揚げが見られます。中でもマグロは有名です。)
⑧海南神社(三崎総鎮守。チャッキラコ面神楽は有名です。夏祭りも行道獅子(おねりじし)や木遣(きやり)が特徴です。)
⑨光念寺(三浦七福神の一つ筌籠弁才天で別名八臀弁才天といい女神が祭られています。)
⑩大椿寺(三浦七福神の一つ鶴園福禄寿が祭られています。三崎三御所の内の一つ「椿の御所」です。)
⑪八景原(海蝕によってできた天然の海岸がとても美しいところです。)
⑫城ヶ島(北原白秋の「雨はふるふる城ヶ島の磯に・・・・」で有名なところです。灯台や岩礁をたどると「めぐりの洞門」、水っ垂れ、ウミウ展望台などと見どころいっぱいです。

環境省 神奈川県 解説板より

白秋文学コース ⑦歌舞島


 いつしかに春の名残となりにけり
 昆布干潟のたんぽぽの花
白秋三崎初遊(明治43年暮春)の一首で、白秋歌碑建設の構想が企画されたとき白秋自身が最初に希望したのはこの歌だった。
しかし三崎の海には昆布は生育しない、搗布(かじめ)を誤認したということで建碑は実現しなかったが、三崎における最初の会心の作として大事にした歌でした。
白秋が人生の岐路に立ち、自らの清秋にも名残を留めようとする、郷愁と愛着がこの歌に秘められているからです。
大正2年、三崎に新居を求めた白秋は、10ヶ月余り三崎の風土を歩きつづけ、
 相模のや 三浦三崎は ありがたく
 一年余り吾が居しところ
と、心霊を甦らせ新生のよろこびを残して小笠原へと渡ったのでした。
三浦市 解説板より
歌舞島の解説板があったが、地殻変動で歌舞島が陸続きになったという記述から、一帯が埋め立てられる前の状況だと思われる。

三浦一族の歴史コース 歌舞島


鎌倉時代、すでに三崎は、鎌倉幕府の行楽の地として、源頼朝公をはじめとして多くの幕官が来遊していました。ここ歌舞島の頼朝公が歌舞宴楽を催したところからこの名が残されています。また一説には、三浦儀村の招きで当地を訪れた将軍藤原頼経が来迎(極楽から仏を迎える) の儀を行い、読経歌舞を催したところからその名が伝えられたともいわれています。
この歌舞島を土地の人は訛って「かくじま」 と呼んでいますが、別名兜島ともいい、往時は兜に似た離れ島でありました。
それが地殻の隆起によって現在のように海岸に突出した陸つづきの小丘になったのです。
このあたり一帯の磯は、岩礁の変化と男性的な海岸美で知られ、荒天どき千様万能の礒岩に挑んで白く砕ける黒潮の雄大さは、水煙千丈とでの形容すべきでありましたが、現在は埋め立てられており、その情景を見ることはできません。
また、頂上から眺める霊峰富士や相模湾の夕映えは天下の絶景です。
三浦市 解説板より


入口が閉じられて今のところ使用されていない、その名も歌舞島公衆便所。


かつては島だったと言われても、現在ではコンクリートの上に岩が出ているだけの歌舞島。おまけに何故か歌舞島の岩面には高利貸しの勧誘ポスターがペタペタと貼られる荒れようである。


埋立地の横にぎりぎり埋立てを免れた二町谷港がある。小さな漁港だが周囲に岩場の多い風光明媚な漁港である。


満潮時で岩場が顔を出していないが、二町谷の蓮痕と呼ばれるうねり狂ったような複雑な地形の二町谷港と海外(かいと)港の間の磯場。


海外(かいと)港も小さな漁港。岩場は二町谷港周辺ほど多くはないので、船道に気を使う事は少なそう。特定第3種三崎港の海外地区というのが正式名称らしい。