だんだん畑も住宅地に変わっていくのだろうか。
道がやっと下り坂になったと思ったら県道26号線に合流する。
御崎口方向に進むとすぐに引橋がある。引橋は三浦の城主であった三浦義同が北条早雲勢が攻めて来たときにかの場所に架かっていた橋を引いて攻撃を防いだとされる。詳しくは下の解説板の通り。
白秋文学コース ひきはし
引橋の茶屋のほとりをいそぐとき
ほとほと秋は過ぎぬと思いき
山峡(やまかい)に橋を架けむとかがやくは
行基菩薩か金色光に
三崎における白秋足跡の北限がこの引橋です。このあたりは三浦一族の居城、新井城の要害、北条早雲とのたたかいに橋を引いて敵の侵入を防いだといわれ、3年にも及ぶ凄惨な攻防戦の故事にちなみ、引橋の地名がいまに残っています。
以前橋のたもとには名物の茶屋が賑わいを見せ、遥かに相模湾をへだてての富士は美しい景観で、三浦名勝のひとつとして知られています。
茶屋は引橋 藤の花盛り
娘ざかりは 来て三崎
白秋は俗謡 「沿海雑曲」 の一説にこう詠んでいます。
三浦市 解説板より
引橋
横須賀市の衣笠城を中心にして栄えた三浦一族は、三浦義澄の孫泰村が時の執権北条時頼と仲たがいとなり、いわゆる宝治合戦がおこり、一族は滅びましたが、 義澄の弟佐原十郎義連の系統が残り、その孫、盛時から八代目の時高が永享十年(1438年)新井城を油壺に構築し、本拠を三浦に移しました。
この時高は世継ぎの問題から養子の義同と争い、明応三年(1494年)新井城で自殺するに至ったとの説があり、三浦の城主となった義同は当時小田原城を根 拠とした北条早雲の勢力と対決、平塚市伊勢原市の両市にまたがる岡崎城、逗子市小坪の住吉城と各支城で敗退、最期のたのみを新井城に託して守りを固めまし た。ここ引橋はそのときの大手、つまり外敵防御の第一線であったといわれ、谷間に橋を掛け渡し、敵が攻め寄せてきたとき、その橋を引いて防いだところから 引橋の地名が起きたと伝えれています。
三浦市 解説板より