和田長浜海岸とふれあいの村


この道で大丈夫だろうかという疑問も湧いてくるような細道。だが三浦半島にはこんな道はざらにある。

側溝ではなく何と言うのだろう。道の真ん中に排水用の水が流れる溝がある。気になって調べてみると、道に沿って設けられる排水用の溝の事を側溝と呼ぶわけで真ん中を通っていても側溝という事だろうか。単に排水溝と呼ぶほうが混乱しないのかも知れない。


この細い道の左手に近浦山円徳寺があった。お寺の参道よりも狭い道にも驚いたが、道の先には駐車場もあって、ここを車が通っているらしいのにも驚かされる。


道は坂がだんだんきつくなってきた。家が両側に無くなっただけ圧迫感が解消されて広くなった気がする。


坂を登りきると一気に空が開けた。そこは一面の平らな畑で道も農道として使われている。というかここは農道か?しかし地図には他の道は無いのでここを進むしかない。


大根畑の先に太陽に輝く白亜の建造物が見えた。ミスマッチの建物に寄っていく。


白亜の建造物の表側に回ってみるとそこはYMCA三浦ふれあい村で施設は和田長浜海岸の前まで及んでいて、そちらには「しおさい棟」 という別棟があり砂浜に近くテニスコートなどもあるため沢山の人達が楽しんでいる。


三浦ふれあいの村に沿って行くと和田長浜海岸に出る道にぶつかる。この三叉路の角に和田城址がある。左に行けば和田長浜海岸の中央部に出る。

和田城址には石碑の周りが丁寧に植栽されて解説板も立っている。

三浦一族の歴史コース 和田城址


和田小太郎義盛は十六才の秋、父の死をさかいに鎌倉杉本城から和田に移り、このあたりは義盛の居館があったところです。
義盛が和田ノ里に館をおいた。その頃すでに和田は三浦半島有数の穀倉地帯であったために、このあたりが領民を守り、水田を管理するにも地の利を占めていたともありました。
義盛は和田を終生の根拠地と定め合戦にのぞんでこの地から多くの兵士が出陣し、食料が先陣におくられるなど重要な役割を果たしていたところです。
現在、和田館(わだやかた)はその跡をとどめていないが、この館を囲むようにして木戸脇(きどわき)、唐池(からいけ)(空池)、出口、赤羽根、矢作(やはぎ) などの地名が残っていて往時を偲ぶことができます。
また 和田館には木曽義仲の妾己午前(めかけともえごぜん)が義盛に預けられここで余生を送ったといわれます。
三浦市 解説板より

和田長浜海岸の中央部に出た。道はここで終わってその先には駐車場がある。道の左側にはYMCA三浦ふれあいの村の施設がある。

この和田長浜海岸中央部に出る道を境に左側が三浦市、右側が横須賀市になる。