【徳川家康】
とくがわいえやす徳川初代将軍(1542~1616)
在職期間 (1603~1605)。
1616年4月17日、徳川家康は75歳の天寿を全うした。死の半年前に本田正純、天海を枕元に呼び、わが遺体は久能山へおさめ、葬儀は増上寺で行い、位牌は三河大樹寺にたて、一周忌がすんだら日光山に小さな堂を建てて勧請せよ。関八州の鎮守となろう。と遺言し、死後も徳川の行方を見守ったのである。
【徳川秀忠】
とくがわ‐ひでただ徳川第2代将軍(1579~1632)
在職期間 (1605~1623)
家康の第三子。
秀忠は、家康と家光の間で影が薄い印象を与えるが、家康の路線を忠実に踏襲したのみならず、かなり独自性の強い施政を行っているし、家光の事績と勘違いされがちな貿易統制等も実は秀忠の施策である。
秀忠は、歴代将軍の中でも家康、慶喜に比肩しうる偉大な政治家であったといえる。
【徳川家光】
とくがわ‐いえみつ徳川第3代将軍(1604~1651)
在職期間 (1623~1651)
秀忠の次子。幼名竹千代。乳母、春日局。
鷹狩の帰りのこと、家光の行列の先に1人の男が酔いつぶれて寝ていた。家光が訳を聞かせると今日は恵比寿講だったため、酒を飲んで酔い潰れてしまったとのことであった。それを聞いた家光は、それは気持ちの良いことだ。もっと、酒を飲ませてやると良い。と言って狩で仕留めた鳥を下賜させたと言う。
【徳川家綱】
とくがわ‐いえつな徳川第4代将軍(1641~1680)
在職期間 (1651~1680)
家光の長子。
家綱が食事をしていた時、汁物を飲もうとすると髪の毛が入っていた。家綱は平然と髪の毛を箸でつまんで取り出したが、小姓はあわてて新しい物と交換しようとした。家綱はその小姓に対しその汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように、と言った。これは椀を空にすることにより、普段のおかわりと同様に扱えということで、処分される者が出ないようにとの配慮からであった。
【徳川綱吉】
とくがわ‐つなよし徳川第5代将軍(1646~1709)
在職期間 (1680~1709)
家光の第四子。母は桂昌院。
生類憐みの令により民衆をくるしめたことで有名な綱吉であったが、まだ将軍宣下を受ける前から直轄領の代官たちに次の通り輸した。
代官等は率先して身を慎み、職務をよく理解し、年貢の収納に努め、下役に任せ切にせず、自らが先に立って職務に精励することが肝要である。
【徳川家宣】
とくがわ‐いえのぶ徳川第6代将軍(1662~1712)
在職期間(1709~1712)
甲府徳川綱重の長子。綱吉の養子。
前将軍綱吉は生類憐みの令を厳守することを遺言したが、家宣は葬儀の2日前に綱吉の柩(ひつぎ)の前で柳沢吉保に次のように言ったという。生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のためにあえて遺令に背くこととする。この時、罪を許された者は八千数百人にも上ったという。
【徳川家継】
とくがわ‐いえつぐ徳川第7代将軍(1709~1716)
(在職期間 (1713~1716)
家宣の第三子
四歳の幼い身で将軍となった家継にとって、御用人(間部詮房)は父のような存在であったという。詮房が出かけ戻ってくるときは、越前()を迎えに出ようといって外で待っており、帰ってくると嬉しそうに抱きついたという。又、他の者が遠慮して言えないことであっても、越前からはきつく叱られた。家継が聞き分けがない時は越前が参りますと言うとおとなしくなったという。
【徳川吉宗】
とくがわ‐よしむね徳川第8代将軍(1684~1751)
在職期間 (1716~1745)
紀州二代藩主徳川光貞の第四子。
吉宗が鷹狩に出かけた時のこと、田の畦(あぜ)を歩いているとき、糞桶があって、転んでしまい、衣服が汚れてしまった。吉宗は衣服を着替えた後、この糞桶の持ち主を連れて来いと命じた。供奉の者はどうなることか心配しながら、その農民を連れてきた。吉宗は、農民に次のように言ったという。
お前は田を肥やし、実を豊かにしようと、糞を買って苦労してきたのに、わしが無駄にしてしまった。その代価としてわしの着ていたこの衣服を使わそう。
【徳川家重】
とくがわ‐いえしげ徳川第9代将軍(1711~1761)
在職期間 (1745~1760)
吉宗の長子。惰弱で暗愚。
家重は生まれつき多病で酒色に浸るなど気性も軟弱であったが、草花をこよなく愛し、名造花師の七朗兵衛をたびたび呼び出し、その細工を楽しんだという。
【徳川家治】
とくがわ‐いえはる徳川第10代将軍(1737~1786)
在職期間 (1760~1786)
家重の長子。田沼意次の執政によって弊政百出。
将軍の起床は六時となっていたが、家治も50歳近くなり早く目が覚めることが多くなった。そんな時は、座敷の中を音を立てないように行ったり来たりして六時になるのをひたすら待っていた。厠(かわや)に行く時も当番の御小納戸役を起こさないように抜き足差し足で廊下を歩いたという。
【徳川家斉】
とくがわ‐いえなり徳川第11代将軍(1773~1841)
在職期間 (1787~1837)
一橋治済の子。田沼意次を斥け、松平定信を老中に任じて前代の弊政を改善、学問を奨励(寛政の治)。将軍在職歴代将軍最長の49年を誇り、側室だけで40人に55人の子供がいた事で有名。死産2名の他、半数は早世。
家斉は、御三卿の一橋家の生まれだがこの時、屋敷のあたり一面が真っ赤な光がただよっていて、その色がさめた時、家斉が生まれたという。
【徳川家慶】
とくがわ‐いえよし徳川第12代将軍(1793~1853)
在職期間 (1837~1853)
家斉の第四子。老中水野忠邦に命じて、いわゆる天保の改革を断行。
家慶が将軍になったのは44歳のときであり、かなりの高齢だが、それでもまだ前将軍の家斉が実権をもっていたので家慶は、政務に対する情熱を持てなかった。そのせいか家慶に決済を仰ぐと「そうせい」と言うのみであった為、そうせい様のお許しであると陰口を叩かれていたという。
【徳川家定】
とくがわ‐いえさだ徳川第13代将軍(1824~1858)
在職期間 (1853~1858)
家慶(イエヨシ)の第四子。
家定は、多病であり非常に癇が強く、本人の意思にかかわりなく首や手足がピクピク動くという体質を持っていた。好んでしたことは自ら、薩摩芋や唐茄子を煮たり、饅頭やカステラを作ることだという。
【徳川家茂】
とくがわ‐いえもち徳川第14代将軍(1846~1866)
在職期間 (1858~1866)
紀州藩主斉順の長子。紀州藩主。のち将軍の位を継ぎ、公武合体のため和宮(カズノミヤ)と結婚。
勝海舟は、順動丸に家茂を乗せ大阪湾を一巡したときに家茂を評し」将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり」と書き残している。
【徳川慶喜】
とくがわ‐よしのぶ徳川第15代将軍(1837~1913)
在職期間 (1866~1867)
徳川斉昭の第七子。
慶喜が大政奉還を申し入れたことを聞いた坂本竜馬はつきのように言ったという。
将軍家の今の心中は察するに余りある。よくぞ決心されたものだ。今後もし万一のことがあれば、自分は誓って、命をかけて慶喜公をお守りする。慶喜公が天下の為に公正な処置を取ってくれたことに対し、自分は感謝せずにはいられない。
徳川15将軍の肖像と逸話 作成著作三和株式会社
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