福石で出世しよう


杉山和一(すぎやまわいち) 

慶弔15年(1610)~元禄7年5月18日(1694年6月10日)

江の島マニアック
江戸前中期の鍼医(はりい)杉山和一は伊勢(又は大和、浜松の説もあり)で藤堂藩の家臣、杉山重政(通称は権左衛門の長男として生まれる。幼名は養慶。

幼くして伝染病により失明した和一は家を義弟重之に譲り江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一(やませたくいち)に学ぶ。
生まれつきのろまで物忘れが激しい性格から、破門を言い渡されるが目の不自由な自分が生きるためには何かを成就大成させねばならぬと、江の島の弁財天の祠に詣で断食祈願をすること7日の後、
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山から下る帰り道に福石のそばでつまずいて倒れ、その際体をチクリと刺すものがあり、拾ってみると竹の筒とその中に入った松葉だったという。
これをヒントに考案したのが、管の中に鍼を入れ管の上部に出た鍼の頭を手で叩いて刺入する杉山式管鍼(くだばり)であった。

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以前は右の写真の様に福石が良く見えたが、現在は江の島道標が福石の前面に移動したため、残念な事に陰陽一対を示す福石が窮屈で見辛くなってしまった。
この江の島道標も杉山和一が寄進したもので藤沢宿より江の島までの4Kmの間に48基が江の島までの道順を指し示すため置かれていたという。福石の前に置かれているものはおそらく最後の江の島道標であろうが現存するのは11基。それももとから置かれていたわけではなく色々動かされてしまったようだ。
現存する、杉山和一寄進の江の島道標は、藤沢市役所構内に2基、遊行通ロータリーに1基、鵠沼神明法照寺境内に1基、片瀬市民センター構内に2基、片瀬光蔵寺筋向に1基、西行もどり松に1基、片瀬小学校構内に1基、白幡神社境内に1基、そして江の島の福石のそばにあるこの江の島道標の全11基です。形は皆同じで高さは1m、四角の柱の一面の横幅は20cm程の花崗岩製。そして、そのすべてに次の銘が刻まれている。

       一切衆生
            ゑのしま道
                二世安楽



その後、京都において鍼科の入江豊明(いりえとよあき)に学び斯術の奥義を極めた。豊明の父良明は検校山瀬琢一の師でもあり、良明の父頼明は豊臣氏の医官園田道保及び明人呉林達に鍼術を学んだ人である。
山瀬、入江両家の長所を取り入れて江の島でヒントを得た杉山式管鍼をもって江戸で開業。名声は大いに上がり門前市をなす盛況を呈した。管を用いるのは日本独自の技法であった。

寛文11年(1671)62歳にして検校となり72歳の時に幕命を受けて鍼術再興のため鍼治講習所(しんじこうしゅうしょ)を開き多くの門人を育てる。
貞享2年(1685)和一75歳の時、将軍綱吉の治療を行い功を奏した事から、
褒美に白銀50枚を贈られ、次いで500石を賜った。その後300石を加増される。
杉山和一は江の島弁財天への感謝の気持ちから、元禄3年(1690)下之宮(現辺津宮)の社殿再興。元禄6年(1693) には下之宮(現辺津宮)の三重塔建立するなど厚い江の島弁財天信仰がうかがえる。
元禄5年(1692)5月関東全域の盲人を束ねる最高位である関東総検校(けんぎょう)に任ぜられる。

元禄6年(1693)将軍綱吉が「何か欲しいものは無いか」と尋ねたところ杉山和一は「が欲しい」と答え、綱吉から本所一つに宅地を与えられた。

翌元禄7年(1694)5月18日に病の床につき6月26日死去した。享年85歳であった。
遺言により命日は病の床についた5月18日とされる。

そして本所一つ目の彌勒寺に葬られ、江の島の墓は分骨されたものと思われていたのだが
関東大震災で江の島の杉山和一の墓が倒れ、修復工事の際に、
調べてみると江の島の墓の方が本物の墓であることが判ったのである。



江の島マニアック
参道突き当たりの交番の横を右に裏参道に入り坂を登るとすぐ江の島市民の家が右手にあり、その入口に杉山検校の墓を示す石標がある。
余談だがこの江の島市民の家のある場所はかつて江の島分校があった場所である。
江の島弁天橋が出来てからは島内には学校はありません。

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その左手の西浦霊園墓地への小道を降りて行くとすぐ杉山検校の墓がある。
この墓は本当の墓であり江の島を愛し信仰した杉山検校が眠っている。
愛する江の島で眠れてさぞや幸せな事であろう。

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後輩の長堀検校も杉山検校への尊敬の気持ちであろうか、江の島に大きな狛犬を寄進している。
現在狛犬は江島神社へ登る階段の登り口、朱の鳥居の隣に鎮座している。
交番の隣と言ったほうがわかりやすいかも知れない。



杉山和一の著書には杉山流3部書があり
「療治の大概集」は恩師入江流の鍼術を記したもの。
「選鍼三要素」は中国古典の鍼理論を述べたもの。
「医学節用語集」は東洋医学の概論を述べたものである。

鍼治講習所(しんじこうしゅうしょ)からは和一の職を次ぐ三島安一(みしまやすいち)が出、彼は江戸近郊および諸国45箇所に講堂を増設、杉山流鍼術を日本国中に広めた。
三島の門下からは島浦和田一(しまうらわだいち)が出て「杉山流首巻選鍼論」を表しその子直秀も職を次ぎ以降、鍼術は医者の業となったのである。

関東総検校まで出世し、85歳の天寿を全うした杉山和一の江の島での出来事から、福石のそばで何かを拾うと福が授かると言われるようになりました。
常に福石の周りは綺麗に掃除が行き届いているので中々物は落ちていません。
訪れた人は福石のそばに5円玉を置いておくようにすると後から来た人に幸せが訪れるでしょう。
もし福石の近くで5円玉を拾った人がいたら、それは私の置いた5円玉かもしれません。
江の島を愛するすべての人々の幸せを願っております。

徳川幕府15代全将軍