江の島弁天橋の歴史
江の島が干潮時に歩いて渡れる様になったのは建保4年(1216)だと言われています。
その後長く干潮時には歩いて渡り、満潮時には渡し舟か人足が背負って渡っていた。
江戸時代には負越賃は潮位によって決まっていたが、他の所と同様ゆすり、たかりが多発していたらしい。
海に入らずに渡れる橋は島民にとっても参詣者にとっても長年の夢であった。
江の島道中記今昔によると寛政12年(1800年)、あまりにユスリ・タカリが横行して参詣人から苦情続出したため業者・総代・名主など60余名が岩本院を通して寺社奉行に訴え、享和元年(1801年)3月5日寺社奉行から申渡覚が下達される。それによると、渡し舟八文、負越膝下十六文、負越股下二十四文、負越股上三十二文と決定されたがさっぱり守られず、訴え・下達をその後も繰り返したという。
江戸時代もこのような軽犯罪にはあまり厳罰というわけではなかったようだ。
片瀬側の州鼻から江の島口に始めて川口村村営の桟橋が架けられたのは明治24年です。それも最初は島口よりの負越場(おいこしば)だけであった。島口よりは常に海水が岸をひたしていたので負越賃を取って背負い渡しをしたことからこの呼称が出ている。
その後江の島参詣者が年々数を増してきたので、1年中自由に島渡りできるようにとの考慮から、30年に州鼻口から島口まで全長380間(1間は1.82m)に架橋し、渡橋賃片道一人一銭五厘、往復三銭を徴収した。
橋は木製の、粗末なもので、大風には揺れ、津波には流され、その度に造りなおさなければならない村民の負担は莫大であった。逆にいえばすぐに流されるのであまりしっかりとは造らなかったと言う事である。
たびたび流される橋は川口村にとっても負担であった。そうしたことから大正10年(1920)10月より県営に移され、渡橋賃は往復二銭となる。県営になっても橋は相変わらず風に揺れ台風には破壊され続けた。
ここに津波にさらわれた江の島桟橋の残骸と片瀬東浜の大正12年の写真がある。右方に橋桁の一部が残っている。関東大震災の被害は揺れは島自体が岩盤のためさほどではなかったようであるが津波により、島内で児童2名が流され、大橋を渡橋中の日光よりの団体客60名程が桟橋と共に流され全員行方不明になる。
舟も浜に打ち上げられ壊された様子が見える。
昭和5年頃の写真。
桟橋は丸太を組んでつなぎ合わせ、上部に板を引いただけの簡素な造りであることが判る。橋からの転落事故もよくあったという。しかしスリル万点のこの簡素な橋に風情を感じるのは私だけであろうか。
昭和11年10月の写真。左に見えるのは聖天島。
右の方には江の島桟橋が見える。
木製の江の島桟橋が明治24年初めて架けられてから58年目の昭和23年秋に橋桁がコンクリート製の強固な江の島弁天橋の工事が始まり、6ヶ月の日数と延2万5000人の労働力、478万円の費用とをもって、同24年3月31日竣工した。写真は昭和23年架橋工事中の江の島弁天橋。
これまで単に桟橋、江の島桟橋と呼ばれて来た橋は初めて江の島弁天橋と呼ばれる様になる。この江の島弁天橋の橋名も一般から公募して決まったものである。
左の写真は昭和24年の写真で完成間も無いもの。4月25日渡り初めのパレードが行われた。橋梁の規模は片瀬寄りの道路式の分が207m。江の島寄りの海中の分408m、全長615m。そして渡橋料5円を徴収した。
この橋を渡った島民の一言目の感想は「橋が揺れない」であった。これまでがいかに揺れていたかが判るエピソードである。
橋桁は強固であったが橋上の部分はやはり木製であり、観光旅行者が増えるにつれ、橋の破損は激しくなっていった。写真は昭和28年の写真。江島神社の末社八坂神社の神社祭。毎年7月7日から14日まで行われる。
そして、9年後の昭和33年(1958)には台風で壊れる事も無い鉄筋コンクリート製の現在の江の島弁天橋が架けられた。現在の海中部分の橋の長さは389.1m。幅4m。
続いて、昭和39年(1964)東京オリンピックのヨット競技の会場に江の島が使われることになり、ヨットハーバーが建設され江の島弁天橋と平行して車両専用の江の島大橋が造られた。橋部分は408m。片瀬側の陸地部分が207m。右が車両用の江の島大橋。左が歩道、自転車用の江の島弁天橋。