二子渡し


大山・江の島・鎌倉詣で
多摩川のほとりに出ました。
このあたりから対岸の二子神社に向かって渡し舟が出ていました。
田園都市線の鉄橋が見えますが、対岸の二子神社は鉄橋の先です。
渡し船は大山側に向かって上流に斜めに運航していたようです。
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建設省二子橋観測所

大山・江の島・鎌倉詣で
せっかく多摩川に来たので兵庫島に寄っていきましょう。
堤防の内側を歩くと建設省二子橋観測所があります。
自動観測ですので人は居ませんがその裏を抜けます。
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玉川通り高架下

大山・江の島・鎌倉詣で
田園都市線の高架下と平行した玉川通りの高架下にお地蔵さんがあります。
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大山・江の島・鎌倉詣で
扉を開くと色々居られます。

兵庫島

大山・江の島・鎌倉詣で
さらに歩くと兵庫島と兵庫橋が見えます。
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兵庫島の由来

正平13年(1358年)に新田義貞の子義貞(よしさだ)が、足利基氏(もとうじ)を討ち、新田家再興をめざして、従者13人と上野(こうすけ群馬) より兵を進めた。ところが、多摩川稲城長沼の渡しで、敵の策略とは知らずに、さし向けられた船に乗ってしまう。この時、渡し守は、かねて仕掛けられた船底の栓を抜き逃げ去った。同時に両岸からは、数百の軍勢が時の声をあげて矢を射かけた。
兜、よろいの武士たちは身動きがとれない。もはやこれまでと義興は、自害してしまうが、従者たちの中には、対岸まで泳ぎつき、群がる敵兵と戦い自害して果てる者もあった、その中の一人でもある由良兵庫助が流れついたのが、兵庫島の名の起こりという。
村人たちは、わざわいが起こらないよう供養し、それ以降、不思議なことに、この中州はどんな洪水の時でも、流されることがなかったと伝えられる。
世田谷区
兵庫島内の掲示板より

大山・江の島・鎌倉詣で
兵庫島から対岸の二子神社を臨む。兵庫島からだと対岸はすぐそこ。
写真中央の木立が二子神社。

兵庫島公園周辺ご案内

兵庫島の由来
兵庫島はもともと多摩川と野川との吐き出す泥砂の堆積により形成されたデルタ地帯であり、現在の位置より1町程上流にあって完全に島の形をなしていた。しかし、たびたびの洪水により移動をかさね、現在ではほとんど陸つづきの1つの州に過ぎなくなっている。

この兵庫島の由来は正平13年(1358年)に新田義貞の子義貞(よしさだ)が、足利基氏(もとうじ)を討ち、新田家の再興をはかろうと、上野国(こうすけ群馬) から従者13人とともに鎌倉に兵を進めたおり。多摩川矢口の渡しで江戸荘の領主江戸遠江守らの策略とは知らずに、さし向けられた船に乗ってしまった。船頭は、かねて仕かけた船底の栓を抜き、櫓(ろ)を流して水にとび込んで逃げてしまった。同時に両岸からは、江戸ら数百の軍勢がときの声を挙げて矢を射かけた。もはやこれまでと義興は、自害したが、気強い従者は対岸に泳ぎつき、群がる敵兵を斬りまくって自害し果てる者もあった、中でも由良兵庫助、新左衛門兄弟は、へさきに立ち、刀を逆手に取り直して互いに自分の首を切り落とした。その壮絶な死をとげた由良兵庫助の屍がデルタ(兵庫島)に流れついたことに起因している。

兵庫島内の掲示板より
若干文章に違いがありますが先述の案内板の内容と重複します。



玉川通り

大山・江の島・鎌倉詣で
兵庫島に寄ったのちは二子神社に向かって川を渡ります。
橋を渡ってそのまま玉川通りのガードをくぐります。
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大山・江の島・鎌倉詣で
ガードをくぐった所に玉川通りに上がる階段があり、
ここを登って玉川道路の歩道に出ます。
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大山・江の島・鎌倉詣で
玉川通りに上がりました。この橋を渡ると神奈川県です。
太陽が真正面にあるのですが、デジカメって良く写りますね。
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