こちらは右に入った旧道。
急な坂になっていますが直ぐに国道246号線の立体交差下を走る
山手通りにぶつかります。
先は無いので、もう一度上に戻り新道を進むことにします。
氷川神社
山手通りとの立体交差を過ぎてすぐ道路右手に氷川神社があります。
本堂には階段を登ります。
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これが氷川神社の本殿。
旧道に入るために氷川神社の前の横断歩道を246号線の左側に渡ります。
目黒大橋
氷川神社から200mほど歩くと目黒川にかかる目黒大橋があります。
上流は上部が塞がれていますがここより下流は上部が開いていて
一応河川の体をなしています。
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目黒大橋から100m程で左に入る旧大山道が残っています。
700m程でまた玉川通り(246号線)に合流する短い道ですが静かな古道です。
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池尻稲荷神社
旧道も終わりかけた場所に池尻稲荷神社があります。
旧大山道の石碑があり子供達の像も立っています。
この場所は涸れずの井戸(かれずのいど)があった場所でもあります。
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涸れずの井戸(かれずのいど)
この池尻稲荷神社の入口わきに、昔「涸れずの井戸」と呼ばれる井戸がありました。これはどんなに日照りが続いても、涸れることなしに、いつも豊かな水をたたえていたので、こう言われていました。この前の大山道旧道を往き来する旅人や野菜を運ぶ農民の
のどをうるおし、まわりの人々に大変喜ばれました。とくに、雨乞いのための大山詣での際には、必ずここに立ち寄ったと言われます。
現在も、この水は境内の中にあり、みなさんにおいしい水を提供しています。
この像は、江戸後期近くの商店に奉公に来ていた少女が、奉公先の子供といっしょに、ここに水を汲みに来た際、たぶんついでに
「かごめかごめ」の遊びをしたであろう様子を想像してつくったものです。
どうぞ、昔の風景を思いうかべてみてください。
平成元年3月 世田谷区
「大山道・歴史と文化の散歩道」 池尻稲荷神社入口の案内板より
「大山道・歴史と文化の散歩道」 池尻稲荷神社入口の案内板より
境内にある石碑なんですが、稲荷神社の上の字が読みにくいですね。村社と書いてあります。多分。
池尻稲荷神社境内。
玉川通りとの合流点に近いためどちらからでも入ることが出来ます。
池尻神社御由緒
世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は倉稲魂神をお祭りしたもので、今から約1270年の昔、和銅4年の2月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。 この神は「稲がなる」イナリの別名が示すように五穀の生育や全ての産業を育成する広大な御神徳のある神ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内にも祭られています。当地稲荷神社は今から300年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村、池沢村の両村の産土神(ウヅスナガミ)として創建鎮座になったものでそれより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。
俗信仰としては古くから「火伏せせの稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられており又江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が記載されています。
当時は大山街道(今の旧道)のほとり常光院の一隅に勧請されたもので村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢音往還(今の二子多摩川方面道路)と津久井往還(今の上町方面バス道路)の2つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の3軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休息して江戸入りする道筋にあり又、江戸からの大山詣での人々が大坂(上通り日産生命を経て大橋への坂で当時は天変な急坂、農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤く、現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳のあらわれであります。
尚境内にある井戸水は京都伏見の薬力明神の託宣による霊水として知られております。
宮司自寸
池尻稲荷神社境内の案内板より
池尻稲荷神社境内の案内板より
三宿交差点
世田谷線に合流すると直ぐに三宿の交差点にでます。
上を首都高が走っていますし、あまり歩くのに楽しい道ではありませんね。
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三軒茶屋
500mほど玉川通りを進むと三軒茶屋の交差点が見えます。
道は2又に分かれていて右が旧道、左が新道となります。
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