鶴間宿


観音寺

大山・江の島・鎌倉詣で
鶴瀬橋を渡ってすぐに観音寺前交差点に名前の通り鶴間山観音寺があります。
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鶴間山観音寺縁起

当山は高野山真言宗で、中興開山頼満和尚は慶長13年(1608)に入寂、その昔金亀坊をいわれたが、開山・開祖は不詳である。
市指定重要文化財の厨子は天文13年(1544)造で、室町時代の様式を伝える貴重なものであるが、創建を知る手掛かりになるのでおろうか。
本尊11面観世音菩薩は寺伝によると、宝暦年間(1751~63)住職宥仁和尚と同様、瀬谷村中屋敷高橋是右衛門にも、この家に伝わる11面観世音菩薩霊夢に立たれ、当山に奉安せよとのお告げがあった。深見村の小林九兵衛はこの勧請を扶け、又下鶴間村領主で旗本の江原公の協力も得て観音堂を新築し安置された。後大火により地域一帯が焼失したが、観音堂だけが難を免れた。村人はその奇瑞に驚き、以後この11面観世音菩薩を本尊と仰ぎ、寺号を今の観音寺に改めたといわれる。しかし宝暦より前に観音寺の記述が古文書に見られる。古老の話では以前は、地蔵菩薩が本尊で真言院といわれたという。
建武5年と延文2年の板碑があるが、新編相模風土記稿に履歴を伝えずと記されている。辨天堂に江原公奉納の辨財天や15童子などまつられ、当時の堂宇も江原公や村内巳待講中が施主であった。
宝暦9年(1759)武蔵・相模・に武相観音札所が創設され、その第1番となり以来卯歳には御開扉供養一斉に厳修される。

観音寺内案内石板より


大山・江の島・鎌倉詣で
境内。

平和記念碑

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碑文
日本が平和国家として再出発してから43年が過ぎた。
満州事変から日華事変そして太平洋戦争にと出動し、帰らざる人となられた当観音寺檀越至誠の諸精霊の阿耨多羅三藐三菩薩の為に、観世音菩薩の慈手を垂れ給う事を求願すると共に、世界の恒久平和を心から希求し、ここに有縁の清心を集め建立する。

観音寺内案内石板より

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六角堂もあります。

観音寺前交差点

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観音寺前の交差点は5差路になっています。
鶴間宿は写真中央の細い道です。
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大山阿夫利神社御分霊社

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観音寺交差点から細い旧道に入ってすぐ右手に大山阿夫利神社の分霊社があります。
入口横には大山街道の道標の他、新田義貞公鎌倉進撃路の石碑。
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相州鶴間村宿と刻まれた道標。
右側面には「是より東 江戸十里」、左側面には「是より西 大山七里」の文字。


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入口を入ってすぐ右にある大山阿夫利神社分霊社。

大國主大神
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金運・長命 大國主大神
出世 太閤豊臣秀吉公霊

お金に困らない財布なぜ清めの大黒天金運生の由来

古い道として親しまれて来た、旧矢倉沢街道、又、別名大山街道と称していた。
此の処は、当時相州鶴間村宿場であった。
江戸方面の旅人等は当地に一夜を明かし、又は休み、わらじを取り替えて身を清め関東の霊山大山阿夫利神社の参拝路の行にはかならず財布をなぜ清めて金運にあやかるように祈願していたのである。
毎月子日 祈願祭   
甲子日 大祈願祭   

出世 金運 長命 大黒天開運神社
大黒天開運神社案内石板より



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境内には義貞公の像も立っています。

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入口横にある新田軍鎌倉進撃の記念碑。

大山・江の島・鎌倉詣で
境内にある新田軍の鎌倉進撃路地図。

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元新田氏の歴史と其の由来を書き記した石碑。



重要保存樹

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時は明治5年6月末日霧の深い初夏の晩の事である。
当所宿部落は東講中と西講中の東西二つの講中に分けられていた。
現在の大久保家・伊澤家の西側道路より裏を東講中を云っていた。
其の東講中が大火に包まれ拾数軒が全焼となり当家では火防の大黒天開運の大神の御守護をもって当家のみ火難をのがれた。其の時に強火の煽りで焼けこげた?の木並に糸ひばの木で有ります。
宮司
神社境内案内石板より

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分霊社を出て少し歩くと小さな交差点の先に小川。
小川を渡った左手には養魚場。
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下鶴間不動尊

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小川を渡ってすぐ右手に下鶴間不動尊の石段があります。
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石段を登っていくと小山の上に下鶴間不動尊があります。
鶴林寺とは隣り合って建っています。

鶴林寺(かくりんじ)

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鶴林寺は浄土宗のお寺で開寺は1569年。

鶴鳴学舎跡(下鶴間学校)

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明治6年に下鶴間の伊澤藤八の貸家を借りて設立された公立小学校です。明治8年には下鶴間学校を改名され、明治15年観音寺本堂の仮教場に移り、やがて鶴林寺境内に校舎を建設しました。
設立当時下鶴間村には、公所の定方寺の寺子屋と荒川論の私塾とがありましたが、鶴鳴(かくめい)学舎の新設にあたり、この荒川論が教員に任命されています。その後、鶴鳴学舎が下鶴間学校を改名された頃からは、定方寺の寺子屋師匠徳仙が荒川論に代わって教員になっています。
平成10年3月 大和市教育委員会
鶴林寺境内案内板より



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大山街道から鶴林寺へ登る階段。
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下鶴間不動尊と鶴林寺への石段の間に鶴間宿案内板が設置されています。
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鶴間宿

この東西に走る道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。東京都港区青山を発し、神奈川県を西南方向に突っ切り、南足柄市関本、矢倉沢、足柄峠へと至る街道です。また、大山街道とも呼ばれるように江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道としても栄えました。
鶴間宿には紺屋・げんこく屋・かたい屋・そば屋・馬喰等の屋号を持った染め物屋・居酒屋・餅屋・質屋といった商家や山本屋・松屋・三津屋・松葉屋・角屋・ちとせ屋の旅籠があった。矢倉沢往還は宿場の中で瀬谷と町田を結ぶ通りと交差していたが、その辻には高札場がありました。また、天保2年に渡辺崋山が綾瀬市に行く途中で、この坂の上にあった宿屋を兼ねていたまんじゅう屋で一泊しており、その時のことを「遊相日記」に記していますが、当時はまだにぎやかではなく、宿場がにぎわいをみせるのは幕末頃であったようです。
大和市教育委員会
大和市教育委員会設置の鶴間宿案内板より



旅籠「松屋」

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旅籠の「松屋」を撮影したもの。右手の看板に「諸国商人御泊宿松屋」、
また、障子に「松屋」とあり、子供たちと働く女性が写っています。(上下の写真は横浜美術館提供)。
大和市教育委員会
大和市教育委員会設置の鶴間宿案内板より

坂上からの鶴間宿

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鶴間宿を西側の坂上から明治4年秋頃に東に向かって撮影したもの。中央の道が矢倉沢往還であるが、その右手方向手前から3軒目の松屋の特徴的な屋根を見ることができる。(上下の写真は横浜美術館提供)。
大和市教育委員会
大和市教育委員会設置の鶴間宿案内板より

大山・江の島・鎌倉詣で
新しい公園ですが鶴間宿には宿の名を取った宿公園もあります。