渡邊崋山来遊記念碑
渡邊崋山は天保二年九月廿二日から数日當地に滞留しその繁盛に驚き厚木の盛んなること都とことならず家のつくりさまは江戸にかわれども女男の風俗かわる事なしと遊相日記にしるしている 崋山三十九歳のときである このおり彼は邑内の風雅を愛する人たちを集めて歓談し需めに應じて厚木六勝を描いた 雨降晴雪 假屋喚渡 相河清流 菅廟驟雨 熊林暁鴉 桐堤賞月がそれで崋山来遊から百三十年 ことの忘れ去られるを慮り大略を記してのちに傳える厚木市長 石井忠重識
武藤 實書
渡邊崋山来遊記念碑より
武藤 實書
渡邊崋山来遊記念碑より
厚木の渡しから海老名側を眺める。右手に渡ってきたあゆみ橋が見えます。
かつては相模川も水量があり、人々は船で相模川を渡っていました。
厚木東町郵便局前交差点
先ほど相模川を渡って右折したあゆみ橋西入口交差点に戻り
そのまま進むと120mで厚木東町郵便局前交差点。直進します。
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厚木神社
郵便局前交差点を過ぎてすぐ、左手に厚木神社があります。
この鳥居をくぐって境内に入ります。
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直進して本殿にお参りします。
もっと近寄って中を覗いてみました。
西日が入って太鼓に悪いのでは・・・
厚木稲荷神社
厚木神社の境内に厚木稲荷神社もあります。
厚木稲荷神社の由来
厚木稲荷神社は安永6年(西暦1777年)牛頭天王社の別当智恩寺住持 法印高観(安永年代寂)が京都伏見稲荷社の分社をここに歓請したことにはじますという以降この地が天王町と呼ばれるようになると天王町の有志が「稲荷講中」を結成して祭祀をするようになり毎年2月の初午祭りが盛大に挙行されて来た
稲荷講の書類は講中の人達の家を持廻りとなっていたが慶応3年(1867)11月の厚木宿の大火の際焼失烏有に帰した
明治15年の大火後土蔵造りの建物として内部に社殿を祀り子供達が中に入れるものであった これも関東大震災に破壊焼失した天王町内で稲荷神社再興の議が起り全町を氏子として寄進を得て昭和7年10月30日地鎮祭 翌8年1月13日上棟式 同年2月初午祭を期して19日夜遷宮祭 20日新殿祭 21日に大祭が盛大に開催された 社殿の建築は厚木町松枝町に居住する半原の宮大工棟梁河内福賢氏によるものである(鈴村茂氏 厚木稲荷神社由緒より)
社殿建立50余年を経過してぬれ縁 玉垣等が損傷し大改修工事を施工する必要となり天王町自治会役員が中心となって改築計画を作成し天王町を中心とした有志の寄進を得て昭和59年1月着工し同年2月完成同月6日初午の日を期して遷宮式大祭を行う
社殿の建築は厚木市飯山大工落安義治 石工は当時秋元邦男氏である
以上今日までの由来を記したるものである
昭和59年2月初午
改築工事寄進者芳名
厚木稲荷神社前の由来解説板より
改築工事寄進者芳名
厚木稲荷神社前の由来解説板より
水神宮
右手の石碑には厚木下流水神宮とあります。
忠魂碑
戦没者銘碑
支那事変と大東亜戦の戦没者の名を刻んだ戦没者銘碑。
渡邊崋山滞留の地
渡邊崋山滞留の地の石碑が建っています。
文字は当時の厚木市長足立原茂徳(在任昭和54年2月23日~平成7年2月22日)
の書とあります。
道路に向かって右側面には
天保2年9月23日より24日に至る
旅籠萬年屋 古郡平兵衛の屋敷跡
左側面には
昭和60年春 厚木市制施行30周年記念
平塚信用金庫
とあります。
渡邊崋山は天保2年に矢倉沢往還を通って小園村(現綾瀬市子園)に住む
お銀さま(主君の生母)を訪ねる旅をしています。
お銀さまに再会した後、厚木を訪れました。
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渡邊崋山の石碑から100m少しで小田急線のガードに近づきます。
懐かしいダルマ型ポストがありました。
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ガードをくぐって100mで寶安禅寺への曲がり口があります。
特に案内はありませんが右折します。
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寶安禅寺
綺麗なお寺で、お墓を販売中でした。
不思議なアンテナのような細長い金属棒が沢山あって電波系のお寺かと思うほど。
多分、カラスがお供え物を狙うのでカラスよけかなと思うのだが、
場所が厚木だけに基地と関係が・・・ それはないでしょうね。
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でも角度を変えて見るとこれやっぱり電波!
寶安禅寺の本殿。
旭町3丁目交差点
寶安禅寺から大山旧道に戻り200mほどで旭町3丁目交差点です。
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最勝寺
旭町三丁目の交差点から100m歩くと最勝寺が右手にあります。
こんな感じで境内に入れませんでした。
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熊野神社
最勝寺から100m少し歩けば熊野神社がやはり右手にあります。
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