厚木宿
熊野神社からきりんと橋
熊野神社
最勝寺から100m少し歩けば熊野神社がやはり右手にあります。
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あつぎの文化財案内板
矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)
矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)は、江戸時代の街道の一つで、現在の赤坂見附を起点とし、南足柄の矢倉沢に通じる国道246号線に沿った道です。河原口村(現海老名市河原口)から厚木の渡しにより厚木村に入り、酒井、愛甲を経て伊勢原に至ります。大山詣での道であるとともに東海道の脇往還(わきおうかん)として、商人たちが行き来する産業の道でもありました。
大山道(おおやまみち)
厚木宿を南北に通過する矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)から西に向かう二条の道で、一つは現中央通り(旧国道246号線)で恩名(おんな)から船子(ふなこ)へ向かい、もう一つは厚木宿の南の端の下宿立場跡(しもじゅくたてばあと)から大山を正面に見て、文化会館横を通り西へ向かいます。二つの道は恩名横町で合流します。
史跡・文化財
①イチョウ(熊野神社)
市指定天然記念物
樹齢450年と推定される古木です。幹には、乳状下垂(にゅうじょうかすい 幹や太い枝の表皮の一部が垂れ下がったもの)が見られ、古さを示しています。熊野神社付近は、古くから「熊野の森」お言われ、渡邊崋山の「厚木六勝」図の一つ。「熊林暁鴉」図はこの森を描いたものです。
②きりんど橋
現ソニー工場の前の厚木用水に架かっていた橋で、堤に桐が植えられていたことから「桐辺橋(きりべばし)」、後に「聖代橋(きりんどばし)」と呼ばれました。現在、橋はなく高瀬慎吾建立の歌碑があります。渡邊崋山の「厚木六勝(あつぎろくしょう)」図の一つ、「桐堤賞月(どうていのしょうげつ)」は、桐辺(きりべ)の堤(つつみ)の月景色の美しさを描いたものです。
③黒田黙耳(くろだもくじ)の墓(宝安寺)
黒田黙耳は、明治12年(1879)愛甲郡役所の主席書記として厚木町に赴任してきました。自由民権運動の高まりの中で、明治15年(1882)厚木で結成された結社「相愛社」の会長に推され、民権運動の指導者として活躍しました。明治21年(1888)没。墓碑は昭和2年に建立されました。
④烏山藩(からすやまはん)厚木役所跡
下野国(しもつけのくに 現栃木県)烏山藩主大久保常春は、享保13年(1728)頃、相模国内に点在する領地を治めるため厚木村に代官所を置きました。現在の厚木神社北側の所で、通称「厚木陣屋」と呼ばれ、役人たちが年貢の取立てや幕府から出される知らせを触れ回る仕事をしていました。
幕末の厚木宿写真(厚木市教育委員会蔵)
⑤旧厚木宿
江戸時代の厚木は、矢倉沢往還・八王子道(はちおうじみち)など主な街道が交差する道筋に在り、常に人馬が往来し、「厚木宿」と呼ばれていました。現在の東町から厚木町にかけての県道沿いには、当時、豪商が軒を連ね、江戸に劣らぬ賑わいをみせていました。この一角、東町二番において、市街地再開発事業に伴い文化財調査団により、平成3年3月から10月までの発掘調査が行われました。16世紀から20世紀に至る様々な生活の痕跡が発見され、この宿場の成り立ちを知る多くの成果を得ることができました。
⑥厚木渡船場跡・渡邊崋山来遊記念碑
市指定史跡
相模川の三川合流地点付近の河原には、かつて「厚木の渡し」と呼ばれた渡船場がありました。明治41年(1908)に相模橋が完成するまで多くの旅人に利用されました。渡邊崋山(画家・蘭学者)が厚木を訪れたのは、天保2年(1831)9月でした。この旅の様子は、紀行日記「遊相(ゆうそう)日記」に詳しく書き残されています。崋山が描いた「厚木六勝」図の一つ「仮屋喚渡(かりやのかんと)」図は、この厚木の渡し付近の風景を描いたものです。
〔厚木六勝(あつぎろくしょう)〕渡邊崋山が撰者斎藤鐘輔(書家・漢詩人)に請われて、当時の厚木村の六か所の景勝地を描いたものです。
「雨降晴雪」図 晴天の大山の雪景
「假屋喚渡」図 呼声が聞こえる渡船場仮屋の景
「相河清流」図 相模川の清流の景
「菅廟驟雨」図 夕立にけむる菅公祠の天神森(現厚木中学校付近)の景
「熊林暁鴉」図 夜明けをつげる鴉(からす)が鳴く熊野神社の森の景
「桐堤賞月」図 月景色が美しい桐辺(きりべ)の堤の景
⑦厚木市郷土資料館
郷土資料館には、厚木の歴史と自然に関する様々な興味深い資料が展示されています。遺跡から発掘された土器・石器・埴輪、江戸時代の司法・行政文書資料、今ではほとんど絶えてしまった講の道具、農具などの民族資料から人々の生活や文化を、また、動植物資料から厚木の豊かな自然環境を知ることができます。
講・・・・神仏を祭り、または参詣するために組織する団体である二十三夜講・伊勢講・稲荷講・太子講や一種の金融組合または相互扶助組織である頼母子講・無尽講などをいう。
文・写真ともに熊野神社前の「あつぎの文化財案内板」より
幕末の頃の厚木宿風景
この写真は熊野神社前の「あつぎの文化財案内板」より複写。
幕末の厚木宿写真(厚木市教育委員会蔵)
熊野神社にある渡邊崋山「厚木六勝図」熊林暁鴉の記念碑
熊林暁鴉 橿家甘人
たまの逢瀬も 夜が短くて にくい熊野の 明け鴉
熊野神社のイチョウ
市指定天然記念物 熊野神社のイチョウ
熊野神社のイチョウ
熊野のイチョウで知られるこの木は、根元で幹の直径が3メートル余りあり、途中で幹が2つに分かれています。樹齢は450年くらいと思われ、木の幹には、乳状下垂が見られ、古木である事を示しています。
この付近は、古くからうっそうとした熊野神社の森で、天保2年(1831)に厚木を訪れた三河田原藩士(現・愛知県田原町)渡邊崋山が描いた「厚木六勝図」の一枚「熊林暁鴉」(ゆうりんのぎょうあ=熊野の森に明け方群がる鴉) は、その風景を描いたものとされています。
平成2年3月
厚木市教育委員会
熊野神社内のイチョウ解説板より
熊野神社から150mほどすると右に入る細い道があります。
ここまで熊野神社からは右に入る道はありませんので最初の道です。
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智音寺
右に入って100m程行くと智音寺の入口です。
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鬼子母神堂
智音寺境内にある鬼子母神堂
鬼子母神堂由来
智音寺境内の鬼子母神の由来を述べますと明治の初め 現在の厚木市東町二の三の所に六代目高部源兵衛という呉服豪商がおり町でも一・二を競う繁盛をしておりました。
ある夜のこと 源兵衛の夢枕に鬼子母神が現れて 十羅刹の元屋敷に鬼子母神を祀るようお告げがありました。
驚いた源兵衛は 土蔵の中にあった仏像が鬼子母神であったことから恐れおののき早速元屋敷(現あさひまち四丁目五の十一)に立派なお堂を建て鬼子母神を祀りこみ盛大に供養祭を行ったという。
その後は毎月の八日を縁日とし沢山の露天商も出て大正末期までは大変賑わったがいつか智音寺の境内に移されてからは訪れる人も少なくなりました。
この鬼子母神堂が風雪と共に破損し今にも朽ち果てようとするその哀れさに厚木南地区文化を考える会が尊像の修復と堂宇を再建のため浄財を募り完成したのがこのお堂です
厚木市南地区文化を考える会
智音寺境内の鬼子母神横の解説板より
智音寺を出て街道に戻り斜め左に入る細い旧道に入ります。
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旧道はすぐに終わり先ほどの街道に合流します。
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下宿
このあたりが厚木宿の下宿であった名残が
下宿と名の付いたバス停に残っています。
きりんと橋
下宿のバス停からすぐ旭町四丁目交差点にきりんと橋の記念碑があります。
渡邊崋山の「厚木六勝(あつぎろくしょう)」図の一つ、
「桐堤賞月(どうていのしょうげつ)」は、
桐辺(きりべ)の堤(つつみ)の月景色の美しさを描いたものです。
桐堤
ノ賞月 橿家甘人
桐を植へたる きりべの堤 四季を通じて 月が良い
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ソニー厚木テクノロジーセンター
きりんと橋の向かいにはソニーの厚木テクノロジーセンターがあって、
多くの社員の皆さんが、きりんと橋の横を通って出社されております。
当然ながら気にしている方はいらっしゃらないです。
旭町四丁目交差点
きりんと橋のある旭町四丁目交差点から左の細い道に入ります。
しばらく行くと厚木宿も終わりになります。
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