江の島は昔から何故参詣者が多い


江の島は鎌倉時代の昔から参詣者の多いところだ。今は参詣というよりは観光で訪れる人が多いのだろうが、正月など身動きがとれぬほど込み合う。
江の島への参詣が盛んになったのは江戸時代であるが、単に源頼朝や徳川家康が信仰していたという単純なものではないようだ。
どうも、中々宣伝が上手だったらしいのである。

江の島マニアック
作者      歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代
           寛政9年~安政5年(1797~1858)
作品名   相州江のしま詣の図七里が濱真景
制作年   弘化年間(1844~47)
寸法     大判3枚続(76.2cm×37.3cm)
板元     佐野屋喜兵衛
所蔵者    藤沢市

もちろん、美しい景色と近くに鎌倉や大山を控え、何より干潮時のみ陸地と繋がるという他には無い観光地としての地形的強みもある。
江島弁財天が歌舞音曲を生業とするものに信仰されたのも、裸弁財天がびわを持っている事と関連があろう。弁天様が裸であること自体、当時の人々にはある種のショックと興味の対象ではなかろうか。今も昔も人々は裸が好きなのである。
そして、御開帳(普段は見せない寺社の宝物等を期間を限って参詣者に見せる事)が江の島の宣伝とそれにともなう財源確保に役立つ事となる。
開帳には江の島でそのまま行う居開帳と、江戸などに出て一定期間行う出開帳があって巳年と亥年に行われた。

江の島マニアック
作者      歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代
           寛政9年~安政5年(1797~1858)
作品名   相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図
制作年   弘化4年~嘉永5年(1847~52)
寸法     大判3枚続(73.9cm×36.9cm)
板元     住吉屋政五郎
所蔵者    藤沢市

江戸での「出開帳」は資料では2度程行われ大変な話題になったようである。また、「御師(おし)」と呼ばれる人々の活躍が見逃せない。「御師」は現代で言う宣伝マンで、江の島を誰が参詣したとか、参詣した誰々の難病が直っただのと、江の島を出て江戸で宣伝して歩いたのである。その中には、かなりデフォルメされたものもあったと推察される。
常時15人~20人が江戸で活躍していたとされ、宣伝のみを専業にしていたわけだから、その効果は絶大であった。
「御師」の活躍により、江の島に興味を持つものが増え、江の島を題材にした浮世絵等も売れたことであろう。浮世絵を見た庶民が江の島詣をする。江の島の宿での食事は文献によると海の幸満載の立派な物であったようだ。その土産話を聞いた人が又行きたくなるといった具合で、江の島への参詣は増えていったのであろう。
又、御師は『鎌倉攬勝考』(文政12年=1829年編)によると「島にては御師とはいはず、裏茶屋と唱ふ、西北の海岸、或いは茶屋のあたりにも住居す、家数およそ30軒ばかり、他国より講を参詣し、御師の家に宿せり、魚味の饗応をなす」とある。
御師達の家もまた裏茶屋と称して魚料理を出したりして茶屋と同じような役割をしていた事がわかる。江の島には同時に漁師町もあり、『鎌倉攬勝考』によると「東の海岸に住す、家数およそ70軒ほど」とある。客人に出す魚料理には不自由しなかったわけである。



江の島マニアック
作者      歌川国安(うたがわ くにやす)初代
            寛政6年~天保3年(1794~1832)
作品名   相州江ノ嶋弁才天巌屋並祭礼之図
制作年   天保(1830~43)初期
寸法     大判3枚続(77.4cm×38.5cm)
板元     川口屋宇兵衛
所蔵者    神奈川県立歴史博物館

さて、今は観光地として有名な江の島であるが、現在の宣伝はどうなっているのであろうか。現在では、テレビ、雑誌等で何かと言うと江の島が取り上げられるので、あまり苦労は無さそうに見えるが、観光客は片瀬海岸で泳いでも中々島内には入らない様なのである。特に若い人はその様だ。

現在の「御師」は「藤沢観光協会」と「藤沢市観光課」であろう。毎年のイベントや色々な企画等、宣伝上手の伝統を守って中々健闘していると私は思う。
藤沢市は2002年秋にドラマやCM、映画などのロケーションを藤沢市内で行う際に撮影がスムースに行えるようにFC(フィルムコミッション)を設立しました。
実際には、江の島と湘南海岸が中心になるが、希望するロケーションの案内から駐車場の手配、道路使用の際の申請や手続きの非営利な代行まで撮影者には格段に便利になるという。
21世紀の「御師」やるぜ。やったね。やるではないか。
これで、また江の島もテレビや映画に登場して遊びに来る人が増えると良いですね。
参考文献 藤沢市教育委員会編「江の島浮世絵展」図録