
城ヶ島大橋下の砂浜に白秋碑はひっそりと立っている。周囲の砂は環境の変化から海への流出が多く、時々砂を足しているらしい。

雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休ねずみの 雨がふる
白秋
と刻まれた白秋碑。雨の日は城ヶ島に観光客はいない。
北原白秋詩碑

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休なずみの 雨がふる
雨は眞珠か 夜明の霧か
それとも私の 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆あげた 主の舟
舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる 日はうすぐもる
舟はゆくゆく 帆がかすむ
大正2年5月、白秋は家族とともに東京から三崎に移り向ヶ崎に新居を構えました。ときに白秋27歳の春でした。
これは、世にいう「桐の花事件」による挫折、傷心から再起をはかるにあたり、この三崎の地が白秋の心を深くとらえていたからでした、そして、白秋は、三崎を訪れた数多い詩人の誰よりも三崎を愛し、なつかしんだ人でもありました、それは翌年、大正3年3月まで10ヶ月ほどの三崎時代でしたがこの間、詩、歌、「雲母集」、「真珠妙」、「白金独楽」のほか多くの作品が残されていることでもわかります。
このように三浦三崎は、市内各所に青年白秋のあしあとのしるしがあり、まさに白秋詩魂のふるさとということができます。
「城ヶ島の雨」、大正2年若き音楽家中山晋平、梁田貞をはじめ音楽学校生徒等による日本の新しい音楽の時代をひらく活動に参加するためのものであります。
白秋は、舟唄として「城ヶ島の雨」を作詞し、これに梁田貞が作曲してできたものです。
この詩碑は、白秋の筆跡を彫り、昭和24年7月、ここから50メートル東の磯に建てられ、のち現在地に移りました。
白秋文学コース案内図解説板より
