等々力不動尊


等々力渓谷を行く
等々力不動尊の本殿正面。写真は拝殿で裏に本殿がある。左手に瓦の寄付を募っていて、名前や願い事などを瓦に直接書いて寄贈すると修復の際にその瓦を使ってもらえるという事の様だ。

等々力渓谷を行く
もう一度立体地図を見て見ると配置が良く分かる。

等々力渓谷を行く
線香の煙が立ちのぼる香閣とその先にある不動尊御本尊拝殿。

等々力渓谷を行く
逆に見て来ているのでこちらが山門になる。
等々力渓谷の何箇所かに設置されている立て看板がこちらにもあった。内容はまったく同じものである。

東京都指定名勝 等々力渓谷

等々力渓谷を行く
所在地 世田谷区等々力二丁目外
指定 平成十一年三月三日
等々力渓谷は、国分寺崖線(がいせん)(ハケ)の最南端に位置する延長約1キロメートルの都内唯一の渓谷である。谷沢川(やさわがわ)が国分寺崖線に切れ込んで侵食したもので、台地と谷との標高差は約10メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水(ゆうすい)の出現が認められる。
玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉(きじ)などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。
都区内とは思えないほどの鬱蒼(うっそう)とした樹林と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。
平成十一年九月
東京都教育委員会


東京都教育委員会のものとは別に世田谷区教育委員会の解説板も設置してあった。

等々力渓谷

等々力渓谷を行く
等々力渓谷
等々力渓谷は谷沢川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(竜頭滝)(りゅうずのたき)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。
不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動尊本堂は、新義真言宗の宗祖興教大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。
昭和54年3月
世田谷区教育委員会


案内板とは別に不動尊独自の大きなガラス付きの掲示板があり、その中に中外日報の等々力不動尊の大きな記事が張られていた。読みやすく分かりやすい内容だったので紹介しておきます。

真言宗智山派 満願寺別院 等々力不動尊

等々力渓谷を行く
〒157-0082
東京都世田谷区等々力3-15-1
電話 03(3705)1622
(弘法大師墨蹟聚集責任幹事)
貫首  阿部龍文
真言宗智山派管長・総本山智積院第六十九世化主に就任し、十月九日に普山した阿部龍文和尚(84)の自坊は、東京・世田谷の「等々力不動尊」を別院とする致航山満願寺である。仙台龍傳和尚は宗務総長として活躍した後、本堂・客殿・庫裡・庫裡の建立を発願。その事業は昭和四十三年に法燈を継承した龍文和尚に引き継がれ、昭和四十五年春、見事に完成した。
その後、弘法大師千百五十年御遠忌にあたる昭和五十九年に弘法大師から「講堂と大塔を建立せよ」 と場所や形も含めてお告げを受け、その通りに塔の模型を組んで設計に持参し、寺観を一新させた。
また世田谷区内にある等々力渓谷にある満願寺別院「等々力不動尊」 は関東大震災で建物を失って以来、境内地二百三坪が残るのみとなっていた。龍文和尚はその「拝殿」 を建立し、正月の護摩を焚くことから始めて参詣者ゼロから再興に尽くした。現在では参詣の信徒も増大し、月例講座企画も毎週のように行われるまでになった。正月だけでなく、節分会や花まつり行事にも人が集まるにつれ、境内地を五千坪に拡張した。
弘法大師の教えを後世に残すため、「弘法大師墨蹟聚集」 刊行を発願。その責任幹事をつとめ、真言宗の十八本山をはじめ、弘法大師の墨蹟が伝わる寺院を訪ね歩き、収録を依頼、撮影にも立ち会った。今年八月には「別巻論文編」 を刊行、自ら解説を執筆した「釈文論」 も来春刊行を予定している。
五月の青葉大祭大護摩供の席上、龍文和尚は「智積院化主となってからも、檀信徒の皆様の前では今までと変わらない貫首です。皆様とともに、十善戒の教えを一軒でも多くの家庭に弘めたい」 と語った。
平成19年12月22日付け 中外日報の紙面より