足利学校2
入徳門を入って進むとすぐに左手に孔子像がある。左右の獅子は阿吽一対ではなく、何故か両方とも口を開いている。孔子の教えと関係があるのかも知れない。日本の狛犬は内側を向いているがこちらは2匹とも正面を向いている。
稲荷社
孔子像の先に稲荷社の鳥居がある。右に稲荷社の詳しい縁起が記してあった。
正一位霊験稲荷社縁起
この正一位霊験稲荷社は、足利学校第七世庠主(しょうしゅ)玉崗瑞與(ぎょこうずいよ)(九華)が書いた天文二十三年(1554)九月の棟札に、足利学校の鎮守である稲荷大明神が、年代が古く神体・社殿ともに破損しているので、あらたに神体を造立(ぞうりゅう)し、社殿を造営し、八幡大菩薩を合せ祀ったとあるから、稲荷社の創建は天文二十三年(1554)よりかなり時代がさかのぼると思われる。
江戸時代この稲荷社は、霊験あらたかで足利の町の人々をはじめ近郷近在の人々が信仰し、祭礼におおぜいの人々が参詣した。またこの稲荷社の狐は、足利の町に異
変がおこりそうな時は、前の晩などに危険を知らせて人々を守ったので、人々から大事にされたという。
江戸時代足利学校では毎年十一月に、御供小豆飯をわらにのせ、狐の穴に供えていた。この稲荷社が霊験あらたかなので、明和七年(1770)第十六世庠主 千渓元泉(せんけいげんせん)が、もとの稲荷大明神を改め、正一位如意霊験と尊崇し、正一位霊験稲荷社とした。
社殿は天文二十三年(1554)創建当時のものと思われるが、明和九年(1772)あらたに梅や竜などの彫刻を社殿にとりつけた。
参道にある灯篭は、元文二年(1737)に足利町の石井新五兵衛・亀田市郎兵衛の寄進、水屋の手水鉢は江戸の大井権左衛門の寄進であり、明治四十二年(1909)図書館のところにあった社殿とともに現在地に移された。
神前には佐野の天明で作られた灯籠がある。
平成十一年十一日吉日
稲荷社解説板より
学校門
さらに進むと寛文八年(1668)創建の学校門がある。学校の文字が書かれた額が掲げられている。
学校門の遠景。左手に稲荷社があり、手前右の道は足利学校の受付でビデオなども見れるようになっている。私は当日最初のお客だったので、ビデオをセットして一人で最初から見ることになる。少しまどろっこしいビデオではあったが一度は見ておいても良いかなと思ったりした。
杏壇門(きょうだんもん)
学校門を入って直進すると杏壇門がある。杏壇門の創建は学校門と同じく寛文八年(1668)。明治二十五年の大火で焼けるも同三十年に焼け残った部材を用いて再建されたとある。杏壇門を入ると中は孔子廟になる。
杏壇門にかかげられている額。
杏壇門をくぐった中が孔子廟(聖廟)で塀に囲まれて大成殿が建てられている。
孔子廟
孔子廟は、儒学の祖の孔子をまつる廟で、聖廟とも呼ばれています。大成殿を囲んで築地塀をめぐらせ、正面に杏壇門を開いています。
大成殿は、寛文八年(1668)に建てられました。正面五間、側面六間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階(もこし)と呼ぶ庇を付けています。内部の正面中央に孔子像、右に小野篁(おののたかむら)像、左に徳川家康の神位などを安置しています。
杏壇門は、明治二五年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて五年後に再建されました。
この聖廟で、孔子とその高弟の顔子・曽子・子思子・孟子を祀る釈奠(せきてん)という義式が毎年行われます。
足利学校案内板より
杏壇門から孔子廟内の大成殿を望む。