史跡 足利学校
昭和通りを通ると足利学校の土手と濠が目に入る。出入り口は入徳門一箇所しかないので、大通りからは回りこまなければならない。入徳門の前には「史跡足利学校跡」 と掘られた石柱が私たちを迎えてくれる。
足利学校 入徳門
足利学校は、古記録や伝承によれば、もと現在地の南方一キロ弱の国府野にあり、奈良・平安時代に諸国に置かれた国学の遺制であるといわれる。それは昭和五十一年の調査でもおおむね裏付けられ、国学の府であれば、父祖か下野守であったか参議小野篁の参画もあったであろう。
その後、衰微した学校を貞和年中、関東管領足利基氏が興こし、さらに、永享年中、上杉憲実は、乱世の中にも僧快元を招き、学領を寄進し、書を献じ学規を定めた。そして、漢学・儒学・経学・易学・占卜(せんぼく)・医学・兵学などが講ぜられ、再興七代の庠主(校長)九華のころは、学徒三千人といわれ、フランシスコ・ザビエルは『日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学。』といい、『四方より攻学の徒雲集巣。』と、耶蘇会(やそかい)に報告している。
江戸時代にも、学燈は受けつがれ、刀剣なども鍛たれ、文人・学者の来訪はしげく、古書、珍籍の秘庫として、遠く、中国にもしられた。
現在、入徳門、中門(学校門)、杏壇門、聖廟 などがのこり、字降松、歴代庠主の墓石もあるが、明治初年までは東小学校の敷地に書院、御祈祷殿、寮舎、文庫、倉庫、庭園、裏門があり、東西約一三五、南北約一二〇メートルの長方形状に土塁と濠をもって全体を囲繞(いじょう)していた。いま、足利学校遺跡図書館には、宋刊本『文選』・『尚書正義』など、国王、重要文化財指定の書籍をはじめ、和漢の書一万三千余冊を蔵し、毎年晩秋の一日 儒祖孔子を祭る釈尊の義式が行われている。
足利市
足利学校解説板より
昭和通り側、足利学校外堀から足利学校を眺める。足利学校は周りを、土手とお濠で囲まれている。
お濠ではちょうど生まれたばかりの、カルガモの親子が泳いでいた。
史跡 足利学校跡
国指定 史跡 足利学校跡
指定 大正一〇年三月三日
面積 一八一七八平方メートル
足利学校の範囲と規模は年代で異なり、最盛期の室町時代の遺構は明らかでない、指定時には、既に東の半分程が小学校となり建物等が取り払われていた。近年、史跡の整備を進め、東部分を江戸時代中期の姿に復原した。
大成殿、杏壇門、学校門、入徳門稲荷堂の建物、土塁の一部などが現存する。万丈、庫裡、書院、土蔵木小屋、衆寮、裏門の建物、庭園掘、土塁などは復原である。
足利学校案内板より
入徳と書かれた額が掲げられた入徳門をくぐると足利学校への入学となる。入徳門は寛文八年(1668)年の創建。入徳の額が掲げられたのは天保十一年(1840)。門をくぐって右手に受付があるので参観料金を払う。