サムエル・コッキング苑 温室跡


サムエル・コッキング庭園の温室遺構

江の島マニアック
コッキング庭園の温室は、明示中期、英国人貿易商サムエル・コッキングが、江の島に造った庭園の一面に巨額の私財を投じて造られました。大正12年の震災等で温室の上屋はすべて倒壊してしまいましたが、煉瓦を主体とした基礎部分や地下に造られた施設が残っていました。遺構は3棟の南北に長い温室の基礎(1)・(2)・(4)と東南に長い温室基礎(3)、西洋風のシンメトリーな形の池(5)、それに、温室の北側に設けられた付属施設であるボイラー室(6)・燃料を入れた貯炭庫(7)・植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽(8)・温室と付属施設とを結ぶ地下通路(9)・冷たい風を遮るための防風壁(10)や集水用陶管などです。
池は最近までその機能を有し、使われていました。コッキングはこの池にも暖房用のパイプを通し、熱帯の水棲植物を育てていたようです。
この温室は、明治中期に造られたものとしては国内では最大の規模を有し、スチームによる暖房設備も当事としては水準の高いものであったと思われます。
煉瓦造の温室遺構としては現存する唯一のもので、近代の文化遺産として非常に貴重なものです。



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昭和初期の温室跡の状況

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中央は植物学者の牧野富太郎博士。昭和初期

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当時の温室のカタログ

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サムエル・コッキング


温室と地下通路

温室とボイラー室、貯炭庫はT字形に設置された地下通路によって繋がっていて、行き来できるようになっています。地下通路の途中にはアクアリュウム(水槽)が二箇所設けられていて、水槽の動植物を飼育していたと思われます。地下通路は幅役1m、高さ1.9mで天井はアーチ型をしており、明かり取りのための天窓も造られています。左手に見える(2)の温室は他の3棟の温室と構造が異なっていて、中央部分に地山を残した造りになっています。当時の温室のカタログから内のつくりと想像することができます。
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通路内部

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反対側

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地下通路入り口

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当時の温室例



ボイラー室・貯炭庫

この下にはボイラー室がありました。
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貯炭庫のアーチ型天井とボイラー室の出入り口

東側に接している貯炭庫とは地下でアーチ型の入り口によって繋がっており、ボイラー室と温室は地下通路で連絡しています。外壁には煙突と思われる煉瓦の構造も見られます。ボイラー室で暖められた温水や蒸気は鉄管や鉛管を通じて書く温室や池を巡っていました。その鉄管や鉛管がところどころ地面に顔を出しています。

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貯炭庫内部と燃料投入口

貯炭庫には二つのアーチ型天井に、燃料を投入するための穴が設けられています。
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貯炭庫上部

明治30年の『植物学雑誌』の記述から、コッキングの温室には蒸気の暖房施設があって、温度は24度内外に暖められており、ランやサボテンなどの植物を栽培していたことがわかりました。



貯水槽・陶管

この下には、幅4m、長さ12m、たかさ3m~3.2mの巨大な貯水槽があります。
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貯水槽の内部、アーチ型天井

天井は鉄骨で補強されたアーチ型で、アーチは9個連なっています。庭園や温室にとって水は欠くことのできない重要なものですが、江の島に水道が引かれたのは対象15年になってからのことでした。

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貯水槽に接続された陶管

そのため、コッキングは温室の屋根に降った雨水を全て利用できるように温室を設計しました。それぞれの温室には集水用の枡が設けられ、これに接続された陶管を通って雨水は貯水槽へと導かれるように造られています。

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手前が貯水槽の上部

陶管には大・中・小の3種類が使用されており、「肥田製」という刻印があるものが見られ、愛知県の常滑で焼かれたものです。
貯水槽の北側、防風壁との間からアーチ型をした煉瓦構造物が出てきましたが、これらがどこにどのように使われていたものかは判っていません。
文:江の島サムエル・コッキング苑の屋外解説板より