藤沢市最高峰 良文公塚登頂06 二伝寺に到着



二伝寺の境内に入ってみると本殿はまだ再建間もない様子だった。本殿の横に立て札が立っていたので記しておく。

木造聖観音座像


藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造聖観音座像
木造寄木造り、玉眼。身部の金泥と衣部の漆箔、及び両手足は後補。
像高49.5cm 総高68.2cm。
左手に蓮華を持つ通常相。作風は鎌倉期以来の慶派的特長が濃厚であり、相好は繊細かつ上品に引き締まり、尊体の抑揚も程よく、また衣文表現も巧みである。
構造や材質(木および漆)も近世以降のものではなく、金箔を再塗装したが像の持つ整って上品な雰囲気と時代の特徴は失っていない。以上から鎌倉末期、14世紀の造立を推定する。
なお、本尊を安置する戒法山宝国院ニ伝寺は鎌倉群三十三観音の三十二番札所である。
平成10年2月12日指定  藤沢市教育委員会
藤沢市教育委員会



お墓の横が小高い山になっていて行ってみると、普通の雑木林で特段変わった事もなかった。そこで人影がしたので聞いてみると、藤沢市最高峰である良文公はじめ3公の墓は墓地の反対側の山だった。ご案内を頂いてこの小道を入っていくと村岡五郎平良文公墓前碑があった。

村岡五郎平良文公墓前碑


良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和二年(886年)三月十八日生まれ。延長元年(923年)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺) 比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護神勧請し (現在の日枝神社) 天慶二年(939年) 鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶三年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城国の御霊宮の祭神 早良親王(追謚号祟道天皇) を同郷宮前村に勧請した (現在の御霊神社) と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏 (三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥) の始祖とし多くの荘園有し武威を関東に振るたり。 その子孫は繁栄せり。公の晩年は役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶六年(952年)12月18日67歳を以て病没し此の地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。
平成一七年乙酉年 十一月吉日  村岡郷土史研究会 建立


二伝寺の石板より



村岡五郎平良文公墓前碑のすぐ横から山頂までの階段が付いている。いよいよ藤沢市最高峰である渡内本存寺の二伝寺境内村岡五郎平良文公墓の山に登頂する事にする。
この最高峰には残念ながら山の名前は無いとのことだった。何かあったほうが呼びやすいのではないかと思ったのは私だけではないはず。