高養寺と伊勢山トンネル



不如帰(ほととぎす)と刻まれた石柱が逗子海岸の海の上に立っている。これは逗子を舞台にした小説「不如帰」 を書いた明治の文豪「徳冨蘆花(とくとみろか)」 の功績を讃える文学碑。


断崖の中腹に位置する白滝山高養寺。高養寺は元々は浪切不動と呼ばれ漁師達の厚い信仰を得ていた。それが明治の文豪「徳冨蘆花」 が高養寺を舞台とする小説「不如帰」 を発表し、そのヒロインの名が浪子であったために、いつの頃からか高養寺も浪子不動と呼ばれるようになった。


蘆花之故地と書かれた木製の記念碑。文学博士藤原楚水の書とある。心配なのは木製である事での耐久性だろう。裏に徳冨蘆花の簡単な経歴が書いてあった。そのうちに石碑で再建される事を期待しよう。

蘆花之故地


先生名は健次郎徳冨氏蘆花はその号なり明治元年(1868)肥後水俣に生る父は一敬母は久子先生はその二男なり、夙に京都同志社に学び泰西の学術並にキリスト教的教育を受く卒業後は兄猪一郎(蘇峰)の経営せし民友社に入りついで国民新聞に筆を執り明治30年わが逗子の地に居を移し爾後不如帰、青山白雲、自然と人生、思ひ出の記等を陸続発表し先生の文名は海の内外に高くその著作は多く英仏独等の語に翻訳せられたその後また聖地パレスチナへの順禮紀行となり杜翁を蘇国に訊ねて後は武蔵野粕谷の里千歳村に田園生活を営み又世界一周の旅に出づるなど聖者の如き生活がつづきその間黒い目・茶色の目・死の蔭に日本から日本へ・富士など多くの著作を残され昭和2年(1927)9月18日上州伊香保に於て病没せられた。
藤原青霞しるす
象の鼻パーク解説板より
一部に訂正があったらしく、文字を削った後に別の板が貼ってあり、板の新旧の色目が違うため、文章の不自然な途切れとともにばれやすい修理だ。そういえば「徳冨」 も「徳富」 になっていてついでに直したほうが良いのではなどと余計な事を考えてしまう。

「さくら貝の歌」 の作者土屋花情氏は、逗子の浜辺から詩想を得て創作しました。またラジオ歌謡として愛唱されました。平成3年10月 逗子市教育委員会
と書かれた木柱の横に歌碑が鎮座している。20年は経っている筈なのに石は強い。手入れも良いようだ。文字もはっきり読み取れる。

さくら貝の歌


うるわしき 桜貝ひとつ
去りゆける 君に捧げん
この貝は 去年の浜辺に
われひとり 拾いし貝よ

ほのぼのと うす紅染むるは
わが燃ゆる さみし血汐よ
はろばろと 通うかおりは
君恋うる 胸のさざなみ

あゝなれど
わが想いは はかなく
うつし世の 渚に果てぬ

土屋花情
さくら貝の歌歌碑より


逗子八景の一、浪子不動の秋月として昭和25年頃のこの場所の写真も載っている。このあたり一帯の磯は平らで浅くすぐに波立つ。


夜でもなければ月も無いが同じ場所を写してみた。ベタ凪のため印象は違うが、海に突き出たチヨギ崎の岩場はそのまま残っている。春の干潮時には一帯は岩場が露出する。国道134号線に沿って伊勢山トンネルまで遊歩道が通っているので散歩の途中での訪問者も多い。


伊勢山トンネルが見えてきた。伊勢山トンネルは400メートルあまりの長さがあり上部には超高級住宅地で有名な披露山庭園住宅の一部がかかっている。


伊勢山トンネルをぬけると左手に国道134号線から降りる道がある。車止めが立っていて車両は通行できないが自転車は横から降りることが出来る。


降り道を降りてくると国道134号線の下に出るので右へ折れれば小坪港。