稲村ヶ崎と七里ヶ浜



稲村ヶ崎が見えてきた。国道134号線は山を切り開いた道を簡単に渡っていくが、新田義貞の鎌倉攻めの際にこの切通しがあれば新田軍は簡単に鎌倉に入る事が出来ただろう。鎌倉海浜公園坂ノ下地区から続いてきたタイルの歩道もここで終わる。左手に岩場のほうに行く道があるので寄っていくことにする。


鎌倉時代末期の鎌倉の戦いの際、新田義貞軍が鎌倉に入ろうとして、陸路の切通しを抜ける事ができず、干潮を待って稲村ヶ崎の海側を伝って鎌倉に入った話は有名である。当時とは若干の地形の変化はあるだろうが、実際に新田軍がここを通ったのだと思うと感慨深い。先端の柵には扉が付いていて左の石段を降りることも出来る。鎌倉時代には石段も護岸も無かったので、そのまま岩場から砂浜に上がったのだろう。


稲村ヶ崎の切通しを抜けると稲村が崎公園前交差点の信号があり、左手が稲村が崎公園になっている。稲村ヶ崎と稲村が崎が混在しているが、住所や交差点、公園名などの表記は稲村が崎と書かれている。一般的には稲村ヶ崎の方が通りが良い。


「かながわ景勝50選 稲村が崎」 と刻まれた石碑越しに江の島を望む。肉眼では江の島と七里ヶ浜の間に富士山がうっすら見えていたのだが小さな写真では難しいようだ。


七里ヶ浜高校下の駐車場の手前に西田幾多郎(にしだきたろう)の奇妙な形の歌碑がある。西田幾多郎は京都の哲学の道などで知られる哲学者で歌碑の上部の丸い部分には 「七里浜 夕日漂ふ 波の上に 伊豆の山々 果し知らずも」 と刻まれている。
歌碑の独特のデザインのモデルは何かと考えてみた。まさか西田先生の名前のキタロウからゲゲゲ関係では無いとは思うが、普通に考えれば海で取れるタコ坊主か照る照る坊主か、坊主であることは間違いないだろう。

西田幾多郎博士記念歌碑


「七里浜 夕日漂ふ波の上に
  伊豆の山々果し知らずも」
明治四十四(1911)年『善の研究』 公刊後、現代哲学を代表する西田哲学を樹立した西田幾多郎(にしだきたろう)博士は、明治三(1870)年石川県河北郡宇ノ気村(うのけむら)に生まれ、学習院、京都大学を歴任後、昭和八(1933)年当地を見下ろす稲村ガ崎に仮寓をもとめ昭和二十(1945)年六月七日に、ここで没するまでの十二年間余を主に夏と冬をすごした。
当記念歌碑は、昭和二十六(1951)年に博士の偉業を記念するために、博士の同郷の友人鈴木大拙博士や門下生らの発起により、多くの知識人や芸術家などの賛同を得て建設された。設計は坂倉準三氏による。
鎌倉市
西田幾多郎博士記念歌碑 解説板より


西田幾多郎歌碑の横から江の島を眺めると、右手の小動岬(こゆるぎみさき)との間に富士山がうっすらと浮かんでいるのが見えた。夕日が沈む風景としては定評のあるスポットである。


鎌倉プリンスホテルと神奈川県立七里ヶ浜高校の下に位置する、七里ヶ浜に沿って400メートルに渡って続く巨大駐車場。国道より海に突き出た格好になっているので、三浦半島から江の島まで視界を隔てるものが何も無い景色が駐車場から楽しめる。


駐車場の西半分ではフリーマーケットが行われていた。現代の宝探しとも言えるフリーマーケット。巨大駐車場付きなので少々買いこんでも荷物になる心配もないし、これから陳列がすめばお客さんが沢山来ることだろう。


江ノ電の鎌倉高校前付近は江ノ電と国道134号線は寄り添うように並んで走っている。道の先に小動岬が見える。